「クロコダイル・ロック」が流れてきた瞬間、何か体の中が動く気がする。
あの弾むようなピアノ、あのla-la-laのコーラス——時代を超えて、今も色褪せない。初めてこの曲を聴いたとき、まだエルトン・ジョンという人の凄さを知らなかった。ただ「なんて楽しい曲だろう」と思っただけだ。
しかしその後、彼の人生を知るにつれ、この陽気な曲の裏に、どれほど複雑で波乱万丈な人生があったかを知ることになる。圧倒的な音楽の才能。世界的な成功。そして長年にわたる依存症との壮絶な闘い。それがエルトン・ジョンという人間の、尽きない魅力だと思う。
自伝「ME」は、彼自身の言葉でそのすべてを語った本だ。ユーモアと自己批判と、そして何より音楽への純粋な愛情に満ちている。この章では、その「ME」を道標に、エルトン・ジョンという人間の誕生から1970年代の黄金時代までを辿っていきたい。
🎹 レジー・ドワイト——ピナーの地味な少年
1947年3月25日、イギリスのミドルセックス州ピナー。
Reginald Kenneth Dwightという名の男の子が生まれた。後にElton Johnとして世界中の何万人もの観客を熱狂させる男の、地味で窮屈な出発点がここにある。
父のスタンレーは英国空軍の将校で、厳格で感情を表に出さない人物だった。息子に銀行員になることを望んでいた。家ではポップミュージックをかけることを禁じた。たとえ時代がロックンロールに熱狂していても、ドワイト家の家長はそれを良しとしなかった。
しかし母のシーラは違った。シーラはこっそりとエルヴィス・プレスリーやビル・ヘイリー、リトル・リチャードのレコードを持ち込み、幼いレジーに聴かせた。「あのとき音楽が電気のように体の中を走った」——エルトンは後に、その瞬間の衝撃を繰り返し語っている。父が禁じ、母が解禁する。その緊張の中で、少年の音楽への情熱は密かに育った。
エルトンは3歳でピアノを弾き始めた。耳で聴いた曲を、そのまま鍵盤で再現した。7歳から正式なレッスンを受け始めると、その才能は一気に開花した。学校の行事ではジェリー・リー・ルイスのように激しくピアノを弾いて観客の度肝を抜いた。静かで控えめな少年が、ピアノの前に座ると別人になった——それが、後のエルトン・ジョンのステージでの変身の原型だった。
1958年、11歳のとき。レジーはロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック(王立音楽アカデミー)のジュニア奨学金を獲得した。これは並外れた才能の証明だった。イギリスで最も権威ある音楽教育機関の一つが、工場地帯の少年を認めたのだ。
この奨学金は週末だけ通う形のもので、レジーは5年間、通常の学校と並行してアカデミーでクラシックの正規教育を受けた。バッハ、ショパン、ベートーヴェン——クラシックの訓練が彼のピアノの土台を作り、そしてその土台の上に、ジェリー・リー・ルイスへの情熱が積み上げられていった。この組み合わせが、後のエルトン・ジョン独自のスタイルを生み出すことになる。
しかしこの頃、家庭の状況が変化した。両親の関係が悪化し、最終的に離婚した。父スタンレーは新しい家族を持ち、母シーラも後に別の男性と再婚した。レジーは祖父母の家に預けられる時期もあり、家族の不安定な状況の中で思春期を過ごした。
その孤独が、後に音楽という出口を通じて噴き出すことになる。
🎓 王立音楽アカデミーとジェリー・リー・ルイス——二つの魂の葛藤
アカデミーで学びながら、レジーの心の中では常に二つのものが戦っていた。
クラシックの正統な訓練への敬意と、ロックンロールへの抑えられない情熱。バッハのフーガを練習しながら、耳の中ではジェリー・リー・ルイスのグレート・ボールズ・オブ・ファイアが鳴り響いていた。
アカデミーの先生たちは、レジーの才能を認めながらも、彼の「本当のやりたいこと」を見抜いていたかもしれない。正式な音楽教育を受けながらも、彼は決してクラシックの演奏家になる道を選ばなかった。
17歳のとき、Aレベル試験の直前に、レジーは学校を中退した。
父は当然、反対した。しかしエルトンの決意は揺るがなかった。「音楽でやっていく」——その確信だけがあった。クラシックの訓練は血肉になっていた。しかしその技術を使う場所は、コンサートホールではなく、ポップミュージックの世界だった。
後に、エルトンはある取材でこう語っている。「舞台に立つと、私は別人になれる。現実の自分から解放される」。そして彼の野性的な舞台衣装とパフォーマンスは、抑圧された少年時代からの解放方法だったとも語っている。
窮屈な家庭で育ち、父に音楽を禁じられ、学校を中退した少年が、やがて羽飾りのついた衣装と巨大な眼鏡で世界最大のスタジアムに立つことになる。その二つの姿の間には、一本の細い糸が通っている——「ピアノを弾くと自由になれる」という、3歳から変わらない感覚だ。
🎸 Bluesologyとの日々——無名時代の修業
学校を中退したレジーは、間もなくBluesologyというバンドに加わった。
1962年から1967年にかけて、このバンドでクラブやホテルを回った。リズム&ブルース、ジャズ、ソウル——あらゆるスタイルの音楽をライブで演奏し続けた。教室ではなくステージが、本当の学校だった。週に何本もの公演をこなしながら、レジーは実践的な音楽家としての技術を磨いていった。
この時代に経験した音楽の幅が、後のエルトン・ジョンの音楽的な豊かさの土台になっている。スムースなソウルからパワフルなR&Bまで、あらゆる感情と場面のための音楽を即興で演奏する能力——これはBluesologyの日々が与えてくれたものだ。
1966年、Bluesologyはロングジョン・バルドリーというシンガーのバックバンドとして活動するようになった。バルドリーはイギリスの有名なR&Bシンガーで、ロッド・スチュワートを発掘したことでも知られる人物だ。しかしレジーにとって、バルドリーの音楽的な方向性——当時の流行に合わせた商業的なポップ——は、自分が求めているものとは違った。
1967年、エルトンはBluesologyを脱退し、ソロキャリアに挑もうとした。しかし彼には一つ、決定的に欠けているものがあった——歌詞を書く才能だ。音楽は書ける。メロディーは書ける。しかし言葉が書けない。
そこで、ある新聞広告に目が留まった。リバティ・レコードが「作曲家とソングライターを求む」という募集をかけていた。レジーは応募した。面接の後、レコード会社から一枚の歌詞の紙を手渡された。その歌詞を書いたのは、バーニー・タウピンという名の17歳の少年だった。
✍️ Bernie Taupinとの奇跡の出会い——二つの才能が出会った朝
1967年、エルトン・ジョンとバーニー・タウピンが出会った。
バーニーはリンカンシャーの農場出身だった。ロンドンに出てきたばかりで、自分の詩や歌詞に自信を持っていたが、メロディーを作る技術がなかった。エルトンはその逆——メロディーは書けるが、詩的な言葉が書けなかった。
二人は最初、ほとんど顔を合わせることなく仕事を始めた。バーニーが歌詞を書いてエルトンに郵送し、エルトンがメロディーをつける。その後、バーニーはエルトンの母親の家に一緒に住むようになった。
「初めてバーニーの歌詞を読んだとき、ただの歌詞じゃなくて、詩だと思った」——エルトンは後に、その感動を何度も語っている。バーニーの言葉には、農場で育った少年の孤独と夢が込められていた。エルトンはその言葉に、直感的にメロディーをつけることができた。
二人はDick James Musicのスタッフ・ソングライターとして雇われ、他のアーティストのために曲を書き始めた。収入は多くなかった。しかし曲を書き続けることで、二人のコンビネーションは徐々に磨かれていった。
💫 「Your Song」——朝食のテーブルで生まれた永遠の名曲
1969年のある朝、エルトンの母親の家のキッチン。
バーニーが朝食を食べながら、突然インスピレーションを感じた。手近にあったノートの紙に、急いで歌詞を書き始めた。後に彼はこう回想している。「歌詞は、ロンドン郊外のノースウッドヒルズにあるエルトンの母親の家のキッチンテーブルで、特に汚れたノートの紙の上に、非常に素早く書かれた。それだけだ。シンプルに。」
歌詞を書き上げたバーニーは、その紙をエルトンに渡してシャワーを浴びに行った。
エルトンはその歌詞を見た瞬間、直感した。「これだ。これは外せない」。ピアノに向かい、20分でメロディーをつけた。「バーニーが歌詞を渡してくれて、ピアノのところに座って、それを見て、『なんて素晴らしい歌詞だ、これは台無しにできない』と思った。それは約20分でできあがって、できあがったとき、バーニーを呼んで、二人ともわかった」——エルトンはRolling Stone誌との会話でそう語っている。
「It's a little bit funny, this feeling inside(少し可笑しな感じ、この心の中の)」——この書き出しは、今日でも世界中の人が知っている。
バーニーが17歳のとき書いたこの歌詞は、恋愛経験のほとんどない少年が、「恋愛とはこういうものかもしれない」と想像して書いたものだった。バーニー自身は後に「こんなにナイーブで子供っぽい歌詞は音楽のレパートリー全体で最大のものかもしれない」と言いながら、「でもそれが今も通用する理由だと思う。それは当時、本物だったから。私は17歳で、恋愛や愛に対する見方や経験が全く新しくてナイーブだった」と語っている。
誰のために書いたかについて、バーニーは一度も明かさなかった。エルトン自身は「バーニーの元カノのことを書いたのだと思っていた」と語っているが、バーニーに確認すると「違う!」と言うだけで、それ以上は教えてくれないという。
「Your Song」は1970年にリリースされ、エルトンの最初のアメリカとイギリスのトップ10シングルとなった。後に「Your Song」はロックの殿堂の「ロック&ロールを形作った500の歌」の一つに選ばれ、グラミー賞の殿堂入りも果たした。
この曲が生まれた瞬間について、エルトンはこう言っている。「それは完璧な歌だ。歌うたびによくなっていく」。
🚀 1970年——ロサンゼルスのトルバドール・クラブで、歴史が変わった夜
「Your Song」の成功は、しかし一夜にして訪れたわけではなかった。
1969年のデビューアルバム「Empty Sky」は、あまり注目されなかった。続く1970年のセカンドアルバム「Elton John」に「Your Song」が収録されたが、それでもアメリカでのブレイクには時間がかかった。
転機は1970年8月25日、ロサンゼルスのトルバドール・クラブでのデビューライブだった。
この夜、エルトンはピアノの前に座ると、椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、鍵盤を叩きながら叫び、ステージを駆け回った——ジェリー・リー・ルイスが乗り移ったような激しいパフォーマンスだった。会場にいた音楽評論家たちは一様に驚き、翌日の新聞に絶賛の批評を書いた。その評判が口コミとマスコミで広がり、あっという間にエルトン・ジョンの名前がアメリカ中に知れ渡った。
「Your Song」はアメリカで最高8位、イギリスで7位を記録した。エルトン・ジョンは「ビートルズ以来最も重要な新人」と評され、一躍時代の寵児となった。
エルトンはこのトルバドールでのパフォーマンスについて「ステージに立ったとき、何かが解き放たれた気がした」と語っている。ピナーの窮屈な家で、父親に音楽を禁じられながら育った少年が、ついに世界に向かって「俺はここにいる」と叫ぶことができた夜だった。
🎵 「Tiny Dancer」「Rocket Man」——詩と音楽が溶け合う境地
1971年のアルバム「Madman Across the Water」に収録された「Tiny Dancer」は、エルトンとバーニーの創作の深さを示す一曲だ。
バーニーはカリフォルニアへの旅行中に感じた印象——陽光の中で踊る女性たち、70年代初頭のロサンゼルスの空気——を歌詞にした。エルトンはその歌詞に、長大で叙情的なメロディーを乗せた。当初シングルとしてはヒットしなかったが、後に映画「あの頃ペニー・レインと」(2000年)でバス内のシーンに使われ、世代を超えて愛されるようになった。
「Tiny Dancer」の成功が示すのは、エルトンとバーニーの音楽が「時代に媚びない」という点だ。流行に合わせて作るのではなく、二人が本当に感じたことを正直に音楽にする。それが時を超えた。
そして1972年の「Rocket Man(I Think It's Going to Be a Long, Long Time)」。
バーニーが書いた歌詞は、宇宙飛行士が地球から遠く離れながら、家族のことを想う孤独を描いたものだ。「And I think it's gonna be a long, long time(そして、長い長い時間になりそうだ)」——宇宙という無限の空間の中の、ひどく個人的な孤独感。
エルトンがこの歌詞にメロディーをつけたとき、「Rocket Man」はただの「宇宙の歌」を超えた。それは、自分の仕事のために家族と離れて生きるすべての人間の歌になった。疎外感、孤独、そしてそれでも続ける仕事への義務感——普遍的な感情を、宇宙という壮大なスケールで表現した。
「Rocket Man」はアメリカでBillboard Hot 100の6位、イギリスで2位を記録した。
🎸 「Crocodile Rock」——俺が最初に好きになったエルトンの曲
1972年10月にリリースされた「Crocodile Rock(クロコダイル・ロック)」は、エルトンとバーニーにとって初のアメリカとカナダでのNo.1シングルとなった。
この曲は、1950年代から60年代にかけてのロックンロールへのノスタルジックなオマージュとして書かれた。エルヴィス・プレスリー、ビル・ヘイリー、エディ・コクラン——少年時代にこっそり聴いたロックンロールへの愛情が、あのイントロのピアノに詰まっている。
1972年のオーストラリアツアー中、エルトンはDaddy Coolというバンドのヒット曲「Eagle Rock」に出会い、その楽しさに触発されてこの曲のアイデアが生まれたという。
バーニー・タウピン自身は後に「奇妙な矛盾で、作ったことは嫌じゃないけど、自分では聴かないだろう」と語り、エルトン自身も「使い捨てのポップ」と直接的に表現した。それでも、半世紀以上経った今も世界中で愛され続けている。
「クロコダイル・ロック」——これが私がエルトン・ジョンで最初に好きになった曲だ。あの弾むようなピアノ、あのla-la-la——一度聴いたら忘れられない。曲は作った当人の思惑を超えて、聴く人のものになる。それが音楽というものだ。
🌟 「Goodbye Yellow Brick Road」——頂点、そして影
1973年10月にリリースされた「Goodbye Yellow Brick Road」は、エルトンの最高傑作と広く評価されている2枚組アルバムだ。
アトランティックとカリブ海のスタジオで、わずか数週間で録音されたこのアルバムは、発売後すぐにアメリカとイギリスの両方でチャートのトップに立ち、8週間1位をキープした。世界中で7百万枚以上を売り上げ、現在では3,100万枚以上のセールスを誇る。
このアルバムには「Bennie and the Jets」「Saturday Night's Alright for Fighting」「Candle in the Wind」「Funeral for a Friend/Love Lies Bleeding」、そしてタイトル曲「Goodbye Yellow Brick Road」が収録されている。
「Bennie and the Jets」はアメリカでNo.1を記録した。グラム・ロックとR&Bが融合した、当時としては革新的なサウンドだった。エルトンは「Soul Train」に招待された最初の白人イギリス人アーティストとなった。
エルトンはこのアルバムについて「これが僕たちの絶頂点だった。物事はどんどん高まっていて、勢いが興奮をもたらしていた。これは薬物や飲酒を始める前だった。これは純粋なエルトンだった」と語っている。
その言葉が示すように、この頃からエルトンの私生活には影が忍び込み始めていた。
👓 派手な衣装という自己表現——そして孤独
1970年代、エルトン・ジョンのステージは世界で最もスペクタクルなものになっていった。
羽飾りのついた衣装、プラットフォームシューズ、巨大な眼鏡——収集したコスチュームは何千点にも及んだ。これらは単なる「見せ物」ではなかった。ピナーの窮屈な家で、父親に音楽を禁じられながら育った少年が、やっと世界に向かって「俺はここにいる」と叫べる手段だった。
しかしその眩しいライトの裏側では、別の現実が進行していた。
成功するほどに孤独が深まった。何百万人もの人々に愛されながら、本当に自分を理解してくれる人間がいない、という感覚。ステージを降りると、空虚な豪邸に一人で帰る夜が増えた。
エルトンは後に、自伝「ME」の中でこう書いている。「俺は成功を望んでいたが、成功が何をもたらすかについては、まるで考えていなかった」。
1970年代後半から、エルトンはアルコールとコカインへの依存が深まっていった。その依存症との壮絶な闘いは、第2章で語ることになる。
しかしこの第1章で伝えたいのは、その影が忍び込む前の、純粋な音楽への情熱だ。
「Your Song」を20分で書いた日。トルバドールのステージでピアノを叩き続けた夜。「Rocket Man」のメロディーが頭の中に降りてきた瞬間。「クロコダイル・ロック」のla-la-laが世界中に広まった時——これらすべての瞬間に、ピナーの少年レジー・ドワイトは確かにいた。
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1947年にミドルセックスで生まれた地味な少年は、11歳で王立音楽アカデミーの奨学金を得て、17歳で学校を中退し、バーニー・タウピンという詩的な才能と出会い、「Your Song」という永遠の名曲を20分で書き、1970年代に世界を席巻した。
「クロコダイル・ロック」のla-la-laには、そのすべての旅が詰まっている。
弾んで、踊って、笑いながら——でも実は、複雑で孤独な魂を持つ男が弾くピアノだった。🎹
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