「Where Did Our Love Go」のイントロで鳴る、あの足を踏み鳴らす音を聴くたびに、不思議な気持ちになる。派手な楽器は何もない。あるのは、手拍子と、足踏みと、少女のように澄んだ一つの声だけ。それなのに、この小さな音の組み合わせが、1964年の夏にアメリカのチャートの頂点に立ち、世界中の少女たちの憧れになった。
その声の持ち主が、ダイアナ・ロスである。そして、その隣には、フローレンス・バラードとメアリー・ウィルソンがいた。デトロイトの同じ公営住宅で育った三人の少女が、「ノーヒット・スプリームス」と陰で笑われた時代を経て、12曲の全米No.1を放つ。それは、アメリカ音楽の歴史のなかでも、もっとも華やかな成功物語の一つだ。
けれど、華やかな物語の裏側には、いつも静かな影がある。成功には代価があり、その代価は、全員が同じ形で払ったわけではなかった。第1章では、1950年代末のデトロイトから、1970年1月、ダイアナがスプリームスのステージを降りる夜までを辿る。ソロとしての彼女の旅は、第2章で語ることにしたい。
🏙️ デトロイトの少女——ブリュースター団地から始まった夢
1940年代から60年代にかけてのデトロイトは、「モーターシティ」の名の通り、自動車産業の街だった。工場の煙突と、その工場で働く人々と、その家族たち。南部から仕事を求めて移り住んだ多くの黒人の家族が、この街で新しい暮らしを始めていた。そして、人が集まる場所には、いつも音楽が集まる。教会のゴスペル、ジャズクラブのスウィング、街角で歌われるドゥーワップ。この街の空気を吸って育った子どもたちが、やがてモータウンという音楽の工場を作り上げることになる。
その街の一角に、ブリュースター・ダグラス団地という公営住宅があった。1944年3月26日、デトロイトで生まれたダイアン・アーネスティン・アール・ロスの一家は、この団地に越してきた。父のフレッドと、母のアーネスティン。以前に住んでいた古い共同住宅に比べれば、団地は部屋が広く、設備も新しかった。貧しい家族にとって、それは「一歩前に進んだ」という実感のある住まいだったと言われる。ダイアンは、のちにダイアナと名前を改められ、世界に知られることになる。
この団地で、後のスプリームスの少女たちが出会った。フローレンス・バラードは1943年6月30日の生まれ。13人きょうだいの8番目で、幼い頃から教会の聖歌隊で歌っていた。メアリー・ウィルソンは1944年3月6日の生まれで、フローレンスの親友だった。ダイアンは、ファッション・デザインを学べるカス・テクニカル高校に通い、フローレンスとメアリーは、ノースイースタン高校に通っていた。通う学校は別々でも、放課後には、同じ団地の同じ空の下で、同じラジオから流れる歌を聴いていたのだと思う。
ここで、少しだけ時計を巻き戻して、もう一人の主人公にふれておきたい。ベリー・ゴーディ・ジュニアである。デトロイトで生まれ育った彼は、自動車工場の組み立てラインで働いた経験を持ち、ボクシングに挑み、レコード店を営み、そして曲を書いた。ジャッキー・ウィルソンのヒット曲のいくつかを手がけたあと、彼は家族から借りたわずかな資金を元手に、1959年にレーベルを立ち上げる。それがタムラ、そして後のモータウンだ。自動車の組み立てラインから、彼は一つのことを学んだと言われる。優れた部品を、優れた順序で組み合わせれば、同じ品質のものを大量に作れる、ということだ。その発想を、ゴーディは「ヒット曲」に応用しようとした。
けれど、この物語の始まりは、まだ巨大な工場ではない。団地の廊下と、放課後の教室と、ラジオの前で、三人の少女たちは、ただ「歌いたい」という気持ちだけを抱えていた。歌が、貧しさや退屈さから抜け出せる、たった一つの出口に思えたからだ。その出口を、彼女たちは自分たちの手で探し当てようとする。それが、スプリームスの物語の、いちばん最初の場面である。
🎤 The Primettes——4人の少女が結成したグループ
1958年、フローレンス・バラードは、デトロイトの男声グループ「ザ・プライムズ」のメンバー、ポール・ウィリアムズとエディ・ケンドリックスに出会った。この二人は、のちにテンプテーションズの中心になる人物たちである。プライムズのマネージャー、ミルトン・ジェンキンスは、フローレンスが歌えること、そしてポールの恋人ベティ・マグロウンも歌えることを知り、「姉妹グループ」を作ることを思いつく。それが「ザ・プライメッツ」だった。
フローレンスは、親友のメアリー・ウィルソンを誘った。そこにダイアンが加わり、四人組が完成する。1959年のことだ。ここで見落としてはならないのは、この時点での中心は、ダイアンではなくフローレンスだったということだ。グループを作ったのは彼女であり、初期のリード・シンガーも彼女だった。ソウルフルで力強い歌声は、仲間たちの間で「いちばんの歌い手」と見られていたと伝えられる。
初期のプライメッツでは、誰がリードを取るかは、曲によって変わった。メアリーは柔らかいバラードを、フローレンスは熱いソウルを、ダイアンは親しみやすいポップスを、それぞれ得意としていた。三者三様の声が、一つのグループの中に同居している。それが、後のスプリームスを特徴づけることになる、不思議な「分け合い」の感覚だった。放課後に集まり、ダンスパーティーやタレント・コンテストで歌い、デトロイトの小さなレーベル、ルー・パインから「Tears of Sorrow」のようなレコードを出す。ダイアンがリードを取った曲、メアリーがリードを取った曲。まだ誰が「スター」になるのか、誰にも分からない時期の、自由な空気がそこにあった。
1960年、メンバーの一人ベティ・マグロウンが抜け、バーバラ・マーティンが加わった。そして、彼女たちは大きな賭けに出る。ダイアンが、昔の隣人だったスモーキー・ロビンソンに、頼み込んだのだ。当時すでにミラクルズのリード・シンガーとして頭角を現していたスモーキーは、ベリー・ゴーディの前でオーディションを受ける機会を取りつけてくれた。団地の「昔の隣人」というつながりが、のちのモータウンの歴史を動かすことになる。人の縁とは、不思議なものだ。
少女たちは、ゴーディの前で、伴奏なしで歌った。曲は、ドリフターズの「There Goes My Baby」。ゴーディは、彼女たちの歌を気に入りはしたが、あまりに若く、経験も足りないと判断した。そして、こう告げる。高校を卒業してから、もう一度来なさい、と。普通なら、そこで夢は終わる。しかし、少女たちは、あきらめなかった。
🚪 Hitsville U.S.A.の扉——Berry Gordyとの出会い
デトロイトのウェスト・グランド・ブールバード2648番地。一見ごく普通の二階建ての家の正面に、一つの看板が掲げられていた。「Hitsville U.S.A.」——ヒットの街、アメリカ。ここが、ベリー・ゴーディのモータウンの本拠地だった。家の地下には小さなスタジオがあり、そこでは昼夜を問わず、曲が書かれ、録音され、練り直された。
学校が終わると、プライメッツの少女たちは、毎日のようにこの家へ足を運んだ。ゴーディには「高校を卒業してから来なさい」と言われたのだから、本来なら、ここに来る理由はない。けれど、彼女たちは、通い続けた。ほとんど相手にされなくても、ドアの前に立ち続けた。やがて、彼女たちの根気に折れるように、モータウンの人々は、小さな仕事を与える。マーヴィン・ゲイやメアリー・ウェルズといった先輩たちの録音で、手拍子と、バック・コーラスを務める仕事だった。
「手拍子」と聞くと、小さな仕事に思えるかもしれない。けれど、私はこの時期こそ、スプリームスのいちばん大切な修行の時間だったと思う。ヒット曲が、どういう順序で、どういう空気のなかで生まれるのか。録音の現場で、プロの演奏家たちが、どう音を重ねていくのか。少女たちは、スタジオの隅で、全身でそれを吸収していた。モータウンという巨大な「音楽の工場」を、いちばん低い場所から眺めた経験が、のちの彼女たちの強さの土台になったはずだ。
1961年、高校を卒業した彼女たちは、ついに正式にモータウンと契約する。ゴーディは、グループの名前を変えることを求めた。いくつかの候補が挙げられた。「ザ・ダーリーンズ」「ザ・スウィート・ピーズ」「ザ・メロディーズ」「ザ・ロイヤルトーンズ」「ザ・ジュエレッツ」。フローレンスは、そのどれも気に入らず、自分で別の名前を提案する。「ザ・スプリームス」。「最高の」という意味の言葉だ。こうして、プライメッツは、スプリームスになった。名前を選んだのが、グループの創設者であるフローレンスだったという事実は、あとから振り返ると、少し切ない。
契約したからといって、すぐに成功が訪れたわけではない。バーバラ・マーティンは1962年の初めに脱退し、グループは、ダイアナ、フローレンス、メアリーの三人組になった。録音したシングルは、なかなか売れなかった。モータウンの社内では、冗談まじりに「ノーヒット・スプリームス」と呼ばれた。メアリー・ウィルソンは、後に、1964年の最初の大ヒットまでに、すでに10枚ほどのレコードを出していたと振り返っている。その多くは、スモーキー・ロビンソンが書いた愛らしい曲だった。それでも、チャートの上位には届かなかった。
その間にも、モータウンは少女たちを「磨いて」いった。社内の「アーティスト・ディベロップメント」部門を率いていたマキシン・パウエルは、ステージでの立ち居振る舞い、話し方、ドレスの着こなしまでを教えた。どんな場所に出ても、堂々とした品格を保てるように。ゴーディには、黒人アーティストを、人種を超えたアメリカの主流のスターにするという、はっきりとした野心があった。団地の少女たちは、こうして、少しずつ「スプリームス」という名にふさわしい存在へと変わっていった。ダイアンという名前も、ダイアナに改められた。
この時代を内側から振り返る貴重な証言として、メアリー・ウィルソンの自伝『Dreamgirl: My Life as a Supreme』がある。華やかな成功の物語を、団地の少女の視点から読み直すことができる一冊だ。
🎵 Holland–Dozier–Holland——「Where Did Our Love Go」と5作連続No.1
転機は、1963年に訪れた。モータウンの作詞作曲・制作チーム、ホランド=ドジャー=ホランドが、スプリームスの曲を手がけ始めたのだ。ブライアン・ホランドとエディ・ホランドの兄弟、そしてラモント・ドジャーの三人。「When the Lovelight Starts Shining Through His Eyes」が、彼らがスプリームスのために書いた最初の曲だった。ゴーディは、このチームの力を、スプリームスに集中させることを決める。それは、ダイアナをグループの正式なリード・シンガーに据えるという決断と、ほとんど同時に進んでいった。1963年の暮れ、ゴーディは、ダイアナを公式のリードに選ぶ。
1964年の春、ホランド=ドジャー=ホランドは、「Where Did Our Love Go」という曲を用意した。この曲は、もともとスプリームスのために書かれたものではなかったと言われる。マーヴェレッツのために準備され、彼女たちがそれを断ったのだ。そして、その曲が、スプリームスの手に回ってきた。しかも、スプリームス自身も、この曲を気に入らなかった。メアリー・ウィルソンは、後に、自分たちはこの曲を「ひどい出来だ」と思っていたと語っている。制作側に説得されるようにして、彼女たちは録音した。1964年6月17日にシングルが発売され、ホット100の77位に初登場する。
ところが、この曲は、8月に全米1位に上り詰める。そのとき彼女たちは、ディック・クラークのツアー「キャラバン・オブ・スターズ」でアメリカ各地を回っている最中で、自分たちの曲が1位になったことに、驚き、そして大喜びしたという。ディーン・マーティンの曲を首位から引きずり下ろしたのが、あの足踏みの曲だった。イギリスでも、初めて全英チャート入りし、3位を記録した。
「Where Did Our Love Go」の魅力は、何度聴いても、その「引き算」にある。分厚いホーンも、派手なギター・ソロもない。リズムの中心にあるのは、スタジオの床を、人々が実際に足で踏み鳴らす音だ。その上に、ダイアナの、少女のように澄んだ軽やかな声が、そっと乗る。「ベイビー、ベイビー」と繰り返すだけの、シンプルなフレーズなのに、その声が、ささやくように、少し寂しそうに、愛の行方を問いかけてくる。力でねじ伏せるのではなく、距離の近さで聴き手を引き寄せる声。これが、のちのダイアナ・ロスの武器になる。
もう一つ、忘れてはならないのは、ダイアナの声が、この曲作りと、驚くほどよく合っていたことだ。力で押し切る声ではなく、息づかいの近い声。それは、ホランド=ドジャー=ホランドが書く、少しだけ背伸びした恋の歌に、絶妙な親密さを与えた。フローレンスの深く熱い声が「魂の叫び」だとすれば、ダイアナの声は「耳元の打ち明け話」だった。どちらが優れているということではない。ただ、1960年代半ばのポップ・チャートが求めたのは、後者だった。
続く「Baby Love」は、1964年10月に全米1位に、そして全英でも1位になった。ホランド=ドジャー=ホランドは、前の大ヒットの空気を残したまま、さらに洗練された形で曲を作った。そして「Come See About Me」「Stop! In the Name of Love」「Back in My Arms Again」と、5曲連続で全米1位を記録する。この快進撃のなかで、スプリームスは、モータウンで初めて複数の全米1位を持ったグループになった。「Stop! In the Name of Love」では、手のひらを前に突き出す、あの印象的な振り付けも生まれた。三人が揃ってその仕草をするだけで、曲の世界が目に浮かぶ。
「Baby Love」が全英チャートで1位になったことも、見逃せない。1964年といえば、ブリティッシュ・インヴェイジョンの真っただ中だ。ビートルズをはじめとするイギリスのバンドが、アメリカを席巻していた。その時代に、デトロイトの団地で育った三人の女性が、今度はイギリスの首位に立った。音楽が国境を越えて行き来する、その往復運動の、最も鮮やかな瞬間の一つだったと思う。
少し立ち止まって、この快進撃のからくりを考えてみたい。ホランド=ドジャー=ホランドの曲は、一見すると似ている。軽快なリズム、親しみやすいメロディー、恋の戸惑いを歌う歌詞。けれど、聴き込むと、一曲ごとに、少しずつ新しい工夫が加えられていることに気づく。モータウンのスタジオ・ミュージシャンたちの巧みな演奏、短い時間で完成する緻密な編曲。この「工場」のシステムが、スプリームスの声と出会ったとき、最も効率よく、最も美しく、機能したのだと思う。あなたが最初に出会ったスプリームスの曲は、どれでしたか?
🌟 ガール・グループの頂点——「Baby Love」から「You Can't Hurry Love」まで
1965年の暮れ、スプリームスは「I Hear a Symphony」で、6曲目の全米1位を獲得した。恋に落ちた瞬間を、「交響曲が聴こえる」と歌うこの曲は、ホランド=ドジャー=ホランドの曲作りが、より豊かな編曲へと進化していることを示していた。弦楽器や管楽器が加わり、ダイアナの声も、少女の囁きから、少しずつ大人の女性の艶へと変わっていく。
1966年に入ると、彼女たちのヒットは一層鋭さを増した。「You Can't Hurry Love」は、「恋は焦らず」という教訓めいたタイトルの通り、母親から娘への助言を、軽やかなリズムに乗せて歌う曲だ。そして「You Keep Me Hangin' On」。私は、この曲を聴くたびに、ギターの乾いた音が、神経を引っかくように鳴り続けるイントロに、背筋が伸びる。「私を宙ぶらりんにしないで」と恋人に突きつけるこの曲では、ダイアナの声が、それまでの甘さを捨て、冷たく鋭く響く。愛の歌が、受け身の祈りから、自分の意志を伝える宣言へと変わった瞬間だ。「You Can't Hurry Love」「You Keep Me Hangin' On」「Love Is Here and Now You're Gone」「The Happening」と、1966年後半から1967年前半にかけて、全米1位が4曲、連続で続いた。
数字で見ても、その成功は桁外れだった。1964年8月から1967年5月までの約3年弱で、10曲の全米1位。アメリカのポピュラー音楽史のなかで、これだけ短い期間に、これだけ多くの頂点を取ったグループは、そう多くない。最盛期の人気は、世界的に見て、ビートルズに迫る勢いだったと言われる。
見た目の変化も重要だった。スプリームスは、同世代の黒人女性パフォーマーとして初めて、細部まで作り込まれたメイクと、華やかなドレス、そしてウィッグという「フェミニンな」イメージを積極的に取り入れた。ステージの上の三人は、まるで夢の中の住人のように見えた。それは、マキシン・パウエルの教えを受け、ゴーディが描いた「白人も黒人も同じように憧れる存在」という戦略の結果でもあった。しかし、私はそこに、団地の少女たちが「なりたい自分」を探した、その切実な思いが重なって見える。
彼女たちは、テレビでも次々と新しい扉を開いた。「ハラバルー」「ハリウッド・パレス」「デラ・リース・ショー」、そして何より、「エド・サリヴァン・ショー」。1964年12月から1969年12月にかけて、エド・サリヴァンは彼女たちを繰り返し番組に招いた。黒人のパフォーマーが家庭のテレビに映ることが、まだ珍しかった時代に、彼女たちは、その壁を静かに、しかし確実に押し広げていった。
当時のアメリカは、公民権運動の激動のなかにあった。スプリームスは、政治的な主張を前面に出すグループではなかったけれど、彼女たちが「普通に」テレビに映り、「普通に」ヒット・チャートの1位を取るという事実そのものが、一つの静かな革命だったと思う。
📺 テレビとアルバムの時代——「Supremes A' Go-Go」の快挙
1960年代の音楽ビジネスでは、シングルが主役で、アルバムは「ヒット曲の寄せ集め」と見なされることが多かった。けれど、ゴーディは、スプリームスを、シングルだけのグループにはしたくなかった。モータウンは「The Sound of Young America(若いアメリカの音)」というスローガンを掲げていたが、ゴーディにとって、スプリームスの最終目標は、ヒット曲の数ではなく、「アメリカの国民的エンターテイナー」としての地位だった。若者だけでなく、親の世代も、黒人も白人も、同じテレビの前で、同じ三人に見とれる。そんな光景を、彼は思い描いていたのだと思う。
その野心は、アルバムの顔ぶれにも表れている。1964年の「A Bit of Liverpool」は、ビートルズなど、ブリティッシュ・インヴェイジョンの曲を取り上げた作品で、イギリスの音楽がアメリカを席巻する時代に、モータウンが真正面から応える形になった。1965年には、サム・クックの追悼アルバム「We Remember Sam Cooke」や、カントリーとポップを取り上げた「Country, Western and Pop」、クリスマス・アルバム、そしてナイトクラブの名門で録音したライブ盤「At the Copa」。ソウルの枠を超えて、さまざまなジャンルを歌いこなすことを、ゴーディは彼女たちに求めた。
「At the Copa」というタイトルが示す通り、彼女たちはニューヨークのコパカバーナのような、大人の客が集まる名門ナイトクラブにも出演した。黒人の若い女性グループが、ドレスで着飾り、洗練された歌と話術で、大人の観客を魅了する。そこには、黒人音楽を「大人の娯楽」として認めさせようとする、ゴーディの戦略が見える。団地の少女たちは、いつのまにか、ショービジネスの正面玄関に立っていた。
1966年の10月22日、スプリームスは、もう一つの歴史的な記録を打ち立てる。アルバム「The Supremes A' Go-Go」が、ビルボードのアルバム・チャートで1位に上りつめたのだ。女性グループのアルバムが、全米1位を獲得したのは、これが史上初めてだった。ロックの男性グループがアルバム・チャートを席巻していた時代に、三人の女性が頂点に立った。ガール・グループは「シングルの世界の住人」という常識を、彼女たちは静かに覆した。
1967年には、「The Supremes Sing Holland–Dozier–Holland」と、「The Supremes Sing Rodgers & Hart」という、対照的な二枚のアルバムも出した。前者は、自分たちを世に送り出した作曲チームの曲を集めた作品。後者は、リチャード・ロジャースとロレンツ・ハートが書いた、ブロードウェイやジャズ・スタンダードの名曲を歌う作品だ。ポップ・チャートの最前線と、アメリカン・ソングブックの伝統。この両極を一つのグループが往復することで、スプリームスは「ヒット曲の工場から生まれた少女たち」から、「アメリカのエンターテインメントを担う存在」へと成長しようとしていた。
テレビの画面のなかの三人を見ていると、ある不思議な調和に気づく。揃いのドレス、揃いの振り付け、揃いの笑顔。その真ん中に、ダイアナの大きな瞳と、よく通る細い首筋が、自然にカメラを引き寄せる。そして、両脇には、メアリーとフローレンスがいる。三人が一つの絵に収まるとき、そこには確かに「グループ」としての完成された美しさがあった。ただ、その絵の中心が、次第に一人に寄っていくことを、画面の外のゴーディは、はっきりと意識していたのかもしれない。
ここには、少しだけ複雑な思いも感じる。ゴーディの戦略は、彼女たちを成功へ導いた。けれど同時に、それは、彼女たちの「個性」を、洗練と万人受けという型に収めていく過程でもあった。フローレンスの熱いソウルフルな歌声は、この型のなかで、少しずつ居場所を失っていく。次の段落は、その影の物語だ。
⚖️ Florence Ballardの悲劇——解雇と孤独
「Where Did Our Love Go」以降、スプリームスの歌のほとんどは、ダイアナがリードを取った。ゴーディとホランド=ドジャー=ホランドは、ダイアナの声が、最も多くのリスナーに届く「ポップな」声だと判断したのだ。それは商業的には正しかったかもしれない。けれど、グループの創設者であり、その力強い歌声を、多くの人が「最高」と認めていたフローレンスにとって、それは自分の居場所を少しずつ奪われていく過程でもあった。初期のスプリームスの録音に残るフローレンスの声は、今聴いても、胸に直接ぶつかってくるような力を持っている。
一緒に育ってきた友人たちの間に、微妙な距離が生まれる。ゴーディのダイアナへの特別な扱いは、社内でも少なからぬ波紋を呼んだと伝えられる。フローレンスは、アルコールに頼るようになり、ゴーディやダイアナとの衝突を重ねた。予定されていた公演やスタジオ録音を欠席することも増えた。メアリー・ウィルソンは、そんな二人の間で、安定した聞き手、慰め役の立場に立っていたと言われる。三人のうち、いちばん静かな場所にいた彼女の存在が、グループを辛うじてつなぎ止めていたのかもしれない。
1967年の春、ゴーディは、パティ・ラベル&ザ・ブルーベルズのシンディ・バードソングに、フローレンスの代わりを務められないかと打診した。フローレンスが知らないところで、準備は着々と進んでいた。そして1967年の夏、ラスベガスのフラミンゴ・ホテルでの公演が、フローレンスにとって、スプリームスとしての最後のステージになった。ある夜まで、ダイアナとメアリーの隣にいたフローレンス。次の夜には、そこにシンディが立っていた。一人の人間が、舞台から静かに消える。その早さと残酷さを思うと、言葉を失う。
その後のフローレンスの人生は、悲しい。彼女はソロ歌手として再出発しようとし、ABCレコードと契約したが、成功は得られなかった。モータウンを離れる際の条件は、彼女にとって不利なものだったと言われ、弁護士を立てて交渉した末に示談金を得たものの、経済的な苦境は続いた。生活保護を受けるほどの困窮にまで追い込まれたと伝えられる。1975年には、保険金の和解金で家を買い、立ち直りかけたかに見えた。メアリー・ウィルソンが、再び一緒に歌わないかと誘った、とも伝えられる。
1976年2月22日、フローレンスは、心臓の冠動脈にできた血栓が原因で、32歳でこの世を去った。葬儀には、ダイアナ・ロスも参列した。その姿は写真に撮られ、世界中に配信された。多くの人が目にしたフローレンスの葬儀の姿は、その一枚だけだったという。かつて同じ団地で笑い合った少女たちが、一人は花に囲まれて眠り、一人はカメラのフラッシュを浴びて立っている。その対比は、あまりに重い。
誰か一人を悪者にする物語にするのは、簡単だ。ゴーディの冷徹さ、ダイアナの野心、フローレンス自身の苦悩。それぞれの要素が複雑に絡み合っており、関係者の証言も、立場によって食い違う。ただ一つ確かなのは、成功を生み出す「工場」のシステムが、そこで働く人々の個性や尊厳を、ときに置き去りにしたということだ。フローレンスの歌声は、今でも、初期のスプリームスの録音の中に、確かに生きている。それを聴くことが、彼女への、いちばん誠実な向き合い方なのだと思う。
👑 「Diana Ross & the Supremes」——看板が変わった日
1967年、スプリームスの看板が書き換えられた。最初は「ザ・スプリームス・ウィズ・ダイアナ・ロス」と、控えめに。そして夏には、正式に「ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス」へ。ラスベガスのフラミンゴ・ホテルの看板が、ゴーディの強い意向で書き換えられたのは、7月20日だったと伝えられる。
この変更が意味していたものは、はっきりしている。物語の主語が、「三人」から「一人」に変わったのだ。メアリー・ウィルソンとシンディ・バードソングは、ダイアナの背後に立つ「ザ・スプリームス」になった。多くの人が、この時点で、ゴーディがダイアナのソロ転向を見据えていたと考えている。ダイアナというスターを作ること。それが、その後のゴーディの最大のプロジェクトになった。
新しい看板の下でも、ヒットは続いた。「Reflections」は、サイケデリックの空気を取り入れた実験的な曲で、全米2位を記録した。1968年の「Love Child」は、貧しい生まれの子どもが背負う悲しみを歌った、社会性の強い曲で、全米1位になった。ポップ・ミュージックが、ラブソングの枠を超えて、現実の社会を映し始めた時代に、スプリームスも歩調を合わせたのだ。同じ年には、テンプテーションズとの合同アルバムやテレビ特番も作られ、モータウンの二大グループの共演は大きな話題になった。
一方で、メアリー・ウィルソンとシンディ・バードソングの、ステージ上と録音での役割は、少しずつ小さくなっていく。レコードの録音では、アンダンテスなどのバック・シンガーが担当することも多くなり、グループの名前だけが、形を保ち続けた。「スプリームス」という名前の意味——「最高の」——は、三人の対等な関係を象徴していたはずだ。看板が変わった日、その意味は、少しだけ変質してしまった。
けれど、ダイアナ・ロスを「裏切り者」として語ることも、私は適切だとは思わない。彼女自身、ゴーディに選ばれ、磨かれ、押し上げられた若い女性だった。1967年、彼女は23歳だった。巨大な期待を背負わされ、同時に、昔からの友人たちとの距離が広がっていくことに、複雑な思いを抱えていたに違いない。成功とは、ときに、いちばん近い人との距離をもたらすものだ。団地の廊下で一緒に歌った友人が、ステージの上で、いつのまにか「バックの人」になっていく。それを自分の名前が書かれた看板の下で見ることは、誰にとっても、簡単なことではなかったはずだ。
名前の問題には、小さな事実がある。もともと「ダイアン」だった彼女の名前は、ゴーディによって「ダイアナ」に改められた。たった一文字の違い。だが、その一文字が、「団地の少女」から「世界のスター」への変身を、象徴しているように思えてならない。
🕊️ 1969年の旅立ち——「Someday We'll Be Together」と別れのステージ
1969年。ダイアナ・ロスのソロ転向は、もはや時間の問題だった。モータウンは、後任となるリード・シンガー、ジーン・テレルの加入を、1969年のうちに発表していた。この年の11月には、分裂は公式のものになったとされる。
その年の暮れ、スプリームスは、ダイアナと一緒に出す最後のシングルを用意した。「Someday We'll Be Together」。もともとは、1961年にジョニー・ブリストルらが録音した曲で、1969年にブリストルが新しい形で準備していたものだった。この曲は、ダイアナの初めてのソロ曲として録音された。ところが、完成した曲を聴いたゴーディは、これを「ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス」の最後のシングルとして発売することを決める。
この曲には、大きな皮肉がある。レコードには、メアリー・ウィルソンも、シンディ・バードソングも、歌っていない。「スプリームス」の最後の全米1位が、実際には、ダイアナ一人の声で作られていたのだ。タイトルの「いつか一緒に」という言葉は、その事実を知ってから聴くと、まるで別の意味を帯びて響く。曲は、1969年の暮れ、ビルボードの1位に輝いた。12曲目の全米1位だった。
1970年1月14日。ラスベガスのフロンティア・ホテル。ダイアナ・ロス&ザ・スプリームスの最後のステージの夜である。ステージには、初期の曲のメドレー、「Reflections」や「Love Child」といった近年のヒット、さらに「The Lady Is a Tramp」や「Can't Take My Eyes Off You」のようなカバーも並んだ。そして最後に、「Someday We'll Be Together」。曲が終わると、ダイアナは、フロンティア・ホテルと、この10年間を共にしてくれたすべてのファンに感謝を述べ、新しいリード・シンガー、ジーン・テレルを、観客に紹介した。この夜の演奏は、のちに2枚組のライブ盤「Farewell」としてリリースされた。
その6日後、ダイアナは、スタジオにいた。ソロとしての最初のシングル「Reach Out and Touch」を録音するために。スプリームスのファンにとって、1960年代は、この日、正式に幕を閉じた。一方、メアリーとシンディは、ジーン・テレルを迎え、スプリームスを続けた。ゴーディは、一時、テレルを別のシンガーに替えることも考えたが、メアリーがそれを拒み、グループは新しい形で歩み続けた、と伝えられる。
スプリームスという名前は、その後もメンバーを入れ替えながら続いた。そして1977年6月、最後のオリジナル・メンバーだったメアリー・ウィルソンが独立を決意し、ロンドンのドルリー・レーン劇場でフェアウェル・コンサートが行われた。一般的には、この夜をもって、スプリームスの歴史は幕を閉じたとされる。三人の少女が団地で歌い始めてから、およそ18年の旅だった。
この夜の録音を聴くとき、私はつい想像してしまう。団地の少女がここまで来た。そして、ここから先は、もう「三人」ではない。その事実の重さが、ステージの空気を、きっと静かに満たしていたはずだ。ホテルの客席の拍手のなかで、三人はそれぞれ、まったく違う未来を思い描いていたのではないだろうか。
⭐ スプリームスが残したもの——ロックの殿堂と『Dreamgirls』
スプリームスは、1964年から1969年のあいだに、12曲の全米No.1を記録した。これは、アメリカのグループとして、今も破られていない記録だ。モータウンの最大のスターであり、1960年代のアメリカで最も成功した黒人音楽グループの一つでもあった。1988年にはロックの殿堂入りを果たし、ローリング・ストーン誌の「史上最も偉大な100組のアーティスト」では第96位に選ばれている。
彼女たちの影響は、ガール・グループの歴史を超えて広がっている。ダイアナ・ロスの確かな系譜は、デスティニーズ・チャイルドやビヨンセの文化へとつながっていると、よく指摘される。三人組の女性ボーカル、洗練されたスタイル、ポップとソウルの橋渡し。そのすべてのテンプレートが、1960年代のデトロイトで作られた。
ブロードウェイ・ミュージカル『Dreamgirls』(1981年)と、その映画版(2006年)は、スプリームスの歴史に着想を得た物語だ。黒人女性グループの栄光と、リード・シンガーの交代、そして置き去りにされる一人の歌手。劇中のエフィという人物には、フローレンス・バラードの人生が重ねられていると言われる。フィクションの形をとったこの物語が、これほど多くの観客の胸を打ったのは、そこに現実の悲しみが映っていたからだと思う。ちなみに、フローレンスは、1988年のロックの殿堂入りに、スプリームスのメンバーとして、没後に名を連ねた。
スプリームスの物語に、完全な「ハッピーエンド」はない。メアリー・ウィルソンは2021年2月8日に76歳で亡くなった。オリジナル・メンバーのなかでは、ダイアナ・ロスだけが存命だ。1970年代以降も、スプリームスという名は、メンバーを入れ替えながら続いたが、全盛期の三人が再び同じステージに立つことは、ほとんどなかった。1983年のモータウン25周年の特番での共演が、ダイアナ、メアリー、シンディの三人が一緒に歌った最後の機会だったと言われる。
1986年には、元メンバーのジーン・テレル、シェリー・ペイン、リンダ・ロウレンスの三人が集まり、新たにスプリームスとして活動を再開した。オリジナル・メンバーのいないこのグループは、「The FLOS(The Former Ladies of the Supremes)」と呼ばれ、オリジナルとは区別されている。名前は続く。けれど、あの三人の声の組み合わせは、一度きりのものだった。
それでも、あの足踏みの音は、今日も鳴っている。「Where Did Our Love Go」のイントロが流れるたびに、デトロイトの団地の少女たちが、スタジオの床を踏み鳴らしていた光景が浮かぶ。華やかな成功と、その陰に残された傷。その両方を抱えたまま、スプリームスの音楽は、半世紀以上たった今も、驚くほど明るく、そして少し切なく響く。
ダイアナ・ロスは、スプリームスを離れたあと、どんな道を歩んだのか。「Ain't No Mountain High Enough」、映画『Lady Sings the Blues』、「Upside Down」、そしてセントラルパークでの大雨のコンサート。彼女の第二の人生は、第2章で語りたい。あなたにとって、スプリームスの音楽とは、どんな時間を連れてくる曲でしょうか。
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団地の少女たちが、ヒットの街のドアを叩き、手拍子から始め、「ノーヒット・スプリームス」と笑われ、やがて12曲の全米1位を手にした。そして、その成功の物語は、フローレンスの孤独と、看板の書き換えと、「いつか一緒に」と歌いながら一人で別れていく曲を、同じ一つの物語の中に抱えていた。
1970年1月14日、ダイアナ・ロスは、スプリームスのステージを降りた。けれど、彼女の旅は、そこから本当に始まる。——第2章へ。🎤
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