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🇮🇪 第1章|ダブリンの空の下で——Bonoとアイルランドという出発点

 

 

 

🇮🇪

アイルランドという国を、音楽なしに語ることはできない。その逆もまた然りだ。

 

 

詩と歌と物語が、この島の人々の血の中に流れている。ケルトの伝統、カトリックの厳格さ、イギリスとの長い確執、そして北アイルランド問題という深い傷——そういうものすべてが、アイルランドの音楽の中に染み込んでいる。

 

 

1960年5月10日、ダブリンのロタンダ病院で生まれた一人の男の子が、やがてその音楽的伝統を世界規模で引き継ぐことになる。

 

 

Paul David Hewson。のちに「Bono」として世界に知られる男の、静かな出発点がここにある。

 

 

 

🍀 シーダーウッド・ロード10番地——「普通」から生まれた非凡

 

 

ダブリン北部、グラスネビン地区のシーダーウッド・ロード10番地。

 

 

生後6週間でこの家に引っ越してきたPaulが育った場所は、典型的なアイルランドの下層中産階級の住宅街だった。三部屋の小さな家。一番小さな部屋がPaulの寝室。父親のBob Hewsonはダブリン中央郵便局で働くカトリック教徒で、母親のIrisはイギリス国教会(アングリカン)の信者だった。

 

 

この組み合わせが、すでに特別だった。

 

 

1960年代のアイルランドでは、カトリックとプロテスタントの間の結婚は珍しく、時に周囲の目を気にしなければならないものだった。北アイルランドではその対立が文字通り命に関わっていた時代に、この家庭は「最初の合意」を作っていた——最初の子供はアングリカンとして、次の子供はカトリックとして育てる、という取り決めだ。

 

 

兄のNormanはアングリカンとして。Paulはカトリックとして育てられることになっていた。しかし実際には、Paulは母親と兄と一緒にアングリカンの礼拝にも通い、二つの宗教の間を自然に行き来した。

 

 

この「どちらにも属しながら、どちらにも完全には属さない」という感覚が、後のBonoの思想と行動の根っこになっていく。特定のイデオロギーや宗教に縛られることなく、しかし深い信仰心を持って動く——そのスタイルの原型は、この家庭の中にあった。

 

 

Bono自身は後年、BBCのデザート・アイランド・ディスクスでこう語っている——「三人の男が怒鳴り合う家で育った。父と兄と俺だ。母が亡くなってからは特に」。

 

 

その「母が亡くなってから」という言葉が、すべての始まりと終わりを示している。

 

 

 

💔 1974年9月10日——14歳のPaulに訪れた喪失

 

 

Bonoという人間を語る上で、この日付を避けて通ることはできない。

 

 

1974年9月10日。Irisが父親の葬儀に出席していたとき、脳動脈瘤で突然倒れた。彼女は4日後の9月10日、息を引き取った。Paulはまだ14歳だった。

 

 

母親の死は、少年の内側に深い空洞を作った。

 

 

後年、Bonoはニューヨーカー誌に「Boy」というエッセイを寄稿し、この喪失について書いている。「俺は母親の死について多くを書いてきた。俺の音楽の多くは、その喪失から来ている。しかし実は、俺はほとんど泣かなかった。悲しみが入ってこないよう、壁を作っていたのかもしれない」。

 

 

初期のU2の曲「I Will Follow」は、この喪失について直接書かれた曲だ。歌詞の中の「If you walk away, walk away / I will follow」という言葉は、去ってしまった母への呼びかけだ。そして「Tomorrow」もまた、母の死の日の記憶を歌った曲として知られている。

 

 

興味深いのは、同じ時期にドラマーのLarry Mullen Jr.もまた母親を失っていたという事実だ。Larryの母、Maureen Mullenは1978年に交通事故で亡くなった。Bonoが母を亡くしたのが1974年、Larryが母を亡くしたのが1978年——二人の間に生まれた深い絆は、この共通の喪失によって強化されたと、後の証言が示している。

 

 

「俺たちは、言葉にせずともわかり合えるものがあった」——Bonoはその絆をこう表現している。

 

 

 

🎒 マウント・テンプル校——出会いの場所

 

 

母を亡くした翌年、PaulはSt. Patrick's Grammar Schoolを経て、マウント・テンプル総合学校に転入した。

 

 

この学校が、すべての始まりだった。

 

 

マウント・テンプルは当時のアイルランドとして珍しい、宗派を問わない学校だった。カトリックもプロテスタントも、同じ教室で学ぶ。この「境界線のない空間」が、後にU2のメンバーとなる4人を一つ屋根の下に集めることになる。

 

 

ここでPaulは、Alison Stewart(のちのAli Hewson)と出会った。16歳のPaulが15歳のAliをバス停まで歩いて送ったのが、二人の関係の始まりだと伝えられている。Aliは後にBonoにとって、人生最大の支えとなる存在だ。二人は1982年、Bonoが22歳、Aliが21歳のときに結婚した——その関係は今日まで続いている。

 

 

そしてもう一つ、この学校でPaulは「音楽」という運命と出会うことになる。

 

 

 

📌 1976年9月25日——学校の掲示板の一枚の紙

 

 

1976年9月25日、土曜日。

 

 

14歳のLarry Mullen Jr.が、マウント・テンプル校の掲示板に一枚の紙を貼った。「バンドのメンバー募集。ドラマーが探しています」——そんな内容の、手書きのメモだった。

 

 

6人の少年が集まった。その後Larryのキッチンで最初のリハーサルが行われた。

 

 

集まったメンバーの中に、Paul Hewson(Bono)、David Evans(The Edge)、その兄Dik Evans、そしてAdam Claytonがいた。

 

 

最初、Bonoはギターを弾こうとしていた。しかし彼のギターの腕は、正直なところ大したものではなかった。代わりに彼が持っていたのは、人を引きつける声と、ステージを支配する存在感だった。Edgeが次第にギタリストとして頭角を現すにつれ、Bonoはボーカルとして自分の場所を見つけていった。

 

 

バンドははじめ「Feedback」という名前で活動し、その後「The Hype」に改名。Dik Evansが脱退してVirgon Prunesという別のバンドに参加した後、残った4人が「U2」という名前を選んだ。

 

 

なぜU2か。「どちらにも読める名前」「解釈が開かれた名前」——そういう理由が挙げられるが、当時の少年たちは「なんか格好いい」という直感で決めたとも伝えられている。

 

 

このとき誰も知らなかった。この4人が、世界で1億7000万枚以上のレコードを売るバンドになるとは。

 

 

 

🎤 「Bono Vox」——補聴器店の看板から生まれた名前

 

 

Paulが「Bono」と呼ばれるようになったのは、Lypton Villageというグループの中でのことだ。

 

 

Lypton Villageは、Paulの近所の仲間たちによる、ちょっと変わった集まりだった。シュールレアリスム的な遊びや実験的なパフォーマンスを好む少年たちのグループで、アーティストのGuggiや、ミュージシャンのGavin Fridayなどが参加していた。このグループには、仲間にニックネームをつける習慣があった。

 

 

Paulに最初につけられた名前は「Steinhegvanhuysenolegbangbangbang」という、読む気を失うほど長いものだった。その後「Huyseman」「Houseman」「Bon Murray」と変化し、やがて「Bono Vox」となった。

 

 

「Bono Vox」の由来は、ダブリンのオコンネル・ストリート近くにあった補聴器店「Bonavox」の看板から来ていると広く伝えられている。ラテン語で「良い声」を意味するbonavoxが、Bono Voxへと変形した。

 

 

彼はこの名前を最初は嫌っていたという。しかし気づいたときには、その名前が自分の一部になっていた。

 

今では世界中の誰もが「Bono」という名前を知っている。本名のPaul David Hewsonを知っている人よりも、はるかに多く。

 

 

 

☁️ プロテスタントの母、カトリックの父——宗教という複雑な遺産

 

 

Bonoの音楽と活動を理解する上で、宗教というテーマは避けて通れない。

 

 

父のBobはカトリック教徒で、日曜日にはミサに通った。母のIrisはアングリカンで、PaulはIrisと兄のNormanと一緒にアングリカンの礼拝にも参加した。

 

 

この「二つの信仰の間を生きる」という経験が、Bonoの宗教観の形成に深く影響した。彼は後にこう語っている——「俺は特定の宗教に縛られることを拒んだ。しかし神への信仰を手放したことは一度もない。信仰と宗教は、俺にとって別のものだ」。

 

 

アイルランドでは、カトリックとプロテスタントの対立は単なる宗教的な問題ではなかった。1960〜70年代、北アイルランドでは「ザ・トラブルズ(The Troubles)」と呼ばれる武力紛争が激化していた。IRA(アイルランド共和軍)とイギリス軍が衝突し、無数の民間人が命を落とした。1972年1月30日の「ブラッディ・サンデー」では、北アイルランドのデリーで、デモ行進中の市民14人がイギリス軍に射殺された。

 

 

Paulが12歳のときの出来事だ。

 

 

「Sunday Bloody Sunday」——後にU2が1983年のアルバム『War』で発表するこの曲は、その記憶と怒りから生まれた。しかしBonoはその曲の中で、どちらの側も「英雄」として描くことを拒んだ。暴力そのものへの拒絶——これが、彼が幼少期から引き継いだ、最も重要な思想的遺産だ。

 

 

 

🌧️ 父との確執、そして深まる絆

 

 

母を失った後、14歳のPaulと父のBobの関係は複雑になった。

 

 

Bonoはデザート・アイランド・ディスクスでこう語っている——「三人の男が怒鳴り合う家だった。父と兄と俺。それが俺の十代だった」。

 

 

Bobは郵便局員として働きながら、二人の息子を一人で育てた。オペラを愛し、アイルランドのテノール、John McCormackの歌を聴きながら育った男。その父の音楽への愛が、確かにPaulに伝わっていたはずだ。

 

 

しかし日常の生活の中では、二人の間に距離があった。母がいなくなり、三人の男たちはそれぞれの悲しみを抱えながら、うまく表現できないまま同じ屋根の下に暮らした。

 

 

その緊張と愛情の混在が、Bonoの初期の歌詞の中に見える。「I Will Follow」の持つ痛みと切望は、単なる「母への歌」ではなく、喪失を経験したすべての人への呼びかけでもある。

 

 

後年、Bonoと父の関係は修復された。父のBobが亡くなる前の数年間、二人は互いの存在をより深く理解し合えるようになったと、Bonoは自伝的なエッセイの中で書いている。

 

 

 

🎸 Cedarwood Road——原点への帰還

 

 

2014年のアルバム『Songs of Innocence』に、「Cedarwood Road」という曲が収録されている。

 

 

曲のタイトルは、Bonoが育ったあの通りの名前だ。

 

 

「I was running from Cedarwood to keep from getting caught(シーダーウッドから逃げていた、捕まらないために)」——曲の中でBonoは、あの通りで過ごした少年時代を、鮮やかに、そして少し苦い記憶として呼び起こす。

 

 

54歳になっても、彼はあの通りに帰っていく。

 

 

父のいた家、母を失った場所、仲間と走り回った路地——それらすべてがBonoの音楽の根っこにある。世界中のスタジアムで歌い、大統領や国王と握手し、貧困と戦争に声を上げてきた男が、今も帰っていく場所は、ダブリン北部の小さな通りだ。

 

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1960年、ダブリンに生まれた一人の少年は、その後60年以上にわたって、世界中で歌い続けることになる。

 

しかしその歌の源泉は、常にシーダーウッド・ロード10番地にある。二つの宗教の間で育ち、14歳で母を失い、学校の掲示板の一枚の紙に導かれてステージへ出た——その全ての経験が、Bonoという人間を作った。

 

アイルランドという出発点は、単なる「出身地」ではない。

 

 

それは、彼の音楽と思想の、永遠の根っこだ。🍀

 

 

 

 

 

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