
1999年9月23日、バチカン。
黒いスーツに白いシャツ、ノーネクタイ。Bonoが、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の前に立った。
同行していたBob Geldofのスタイルも大差なかった。茶色のジャケットにチェックのズボン、Tシャツ。ヴァティカンの通常のプロトコルからは程遠い服装で、二人のロックスターは史上最もカトリック的な場所に現れた。
この日、Bonoがバチカンを訪れたのは、ひとつの目的のためだった——第三世界の債務免除。ユベール2000(Jubilee 2000)運動の一環として、Bonoはジェフリー・サックス経済学者とともに、法王の支持を求めにきたのだ。
🏛️ ローマ法王との対面——サングラスとウィットの交換
握手の瞬間、Bonoは法王がずっと自分のサングラスを見ていることに気づいた。
「俺のせいで何か気分を害しているのかと思って、サングラスを外したんだ」とBonoは後にジェイ・レノのトゥナイト・ショーで語っている。「でも法王はまだじっと見ていた。だから贈り物として差し出した——さっきロザリオをいただいたお返しに。そしたらセアノス・ヒーニーの詩集も一緒に渡したんだけど、法王はすぐにサングラスをかけた。そして最高に悪戯っぽい笑顔を見せた」。
法王はサングラスをかけたままポーズを取り、カメラが一斉にシャッターを切った。
Bonoはその瞬間を思い描いていた——「ドロップ・ザ・デット(債務免除)キャンペーンが、全世界の新聞の一面を飾る。これは最高だ!」
しかし翌日、法王は眼鏡を返さなかった。「法王が俺のフライシェードを持ち逃げした」とBonoは唖然として語っている。
真剣な話をすると——この会談は象徴的な写真だけでなく、実質的な成果をもたらした。2012年のバチカン・ラジオとのインタビューでBonoは語っている。「ヨハネ・パウロ2世なしでは、23カ国の債務を完全に免除させることは絶対にできなかった。カトリック教会はこの問題において、真剣なクレジットを受けるべきだ」。
法王のユーモアと権威が、債務免除という「まじめな話」を世界に届けるための、完璧な入り口になった。
🤝 ネルソン・マンデラとの友情——「俺を老人と呼ぶな」
Bonoのアフリカとの関わりの中で、最も深く、最も個人的だったのが、ネルソン・マンデラとの友情だ。
二人が初めて深く話したのは、マンデラが1999年に大統領を退任した後のことだ。マンデラはアパルトヘイトに反対したとして27年間投獄され、ロベン島の監獄で18年を過ごした。Bonoがアフリカの債務免除と貧困問題に取り組み始めたとき、マンデラはすでに「生きる伝説」だった。
Bonoはアイリッシュ・タイムズ紙に寄稿した追悼文の中で、マンデラとの忘れられない場面を描いている——ロベン島で、マンデラが27年間収監されていた独房の外の中庭に立ったとき。マンデラは囚人番号「46664」をHIV/AIDS危機への運動に使うことを決意した理由を話し始めた。そのとき、滅多に感情を外に出さないマンデラが、言葉を詰まらせた。
「マンデラは泣かない人だった。でもあの瞬間、彼はほぼ声を詰まらせた」——Bonoはそう書いている。
マンデラは貧困を単なる人道問題としてではなく、アパルトヘイトと同じ問題の現れとして見ていた。「何百万人もの人々が貧困という監獄に閉じ込められている。彼らを自由にする時だ」——2005年、ロンドンのトラファルガー広場での「メイク・ポヴァーティ・ヒストリー」集会でマンデラはこう語った。「奴隷制度やアパルトヘイトと同じように、貧困は自然のものではない。人間が作り出したものだ。だから克服できる」。
Bonoがマンデラについて書いた最も有名な言葉がある——「マンデラの靴ひもを結ぶほど俺は謙虚ではない(I'm not humble enough to tie Mandela's shoes)」。
この言葉に、Bonoのマンデラへの絶対的な敬意が込められている。自分を謙虚だと思っていない男が、特定の人物の前でだけ謙虚になる——それがネルソン・マンデラだった。
💊 ジョージ・W・ブッシュとのAIDS資金交渉——「彼は面白くて、機転が利く」
2002年3月14日、ホワイトハウス。
Bonoはジョージ・W・ブッシュ大統領と会談した。議題はアフリカのHIV/AIDS危機への資金援助。
この組み合わせは、世界中の誰もが首をかしげた。U2のフロントマンと、テキサス出身の共和党大統領。政治的には正反対に見える二人。
しかしBonoはブッシュについてこう語っている——「彼は面白くて、機転が利いた(funny and quick-witted)」。
会談の背景には、国務省長官でポール・オニールとBonoの奇妙な組み合わせのアフリカ訪問があった。財務省長官オニールは最初、「あいつは俺を利用しようとしているだけだ」と思っていたとCBSニュースに話している。しかし約束していた30分の会談が90分に延長された——Bonoの経済理論への深い理解と、「HIVクリニックで3人が一つのベッドで一緒に死んでいくのを見たことがある、そしてそれが変えられることを知っている」という現場への理解が、オニールを驚かせたからだ。
ブッシュ政権はその後、PEPFAR(大統領エイズ救済緊急計画)を立ち上げた。2003年に開始されたこのプログラムは、アフリカを中心とした低所得国でのHIV/AIDS治療に数百億ドルを投じ、現在までに数百万人の命を救ったとされる。
Bonoは政党や意識形態に関係なく交渉したことで批判も受けた——「なぜ右翼と組むのか」という左派からの批判。しかし彼の答えはシンプルだった——「アフリカで子供が死んでいる。俺は誰とでも話す。それだけだ」。
🌐 ONE Campaign——ダボス会議での演説
2005年1月、スイスのダボス。
世界経済フォーラム——世界の最高権力者たちが集まる場所。CEOたち、大統領たち、首相たち、中央銀行総裁たち。
そこにBonoがいた。
彼はダボスで繰り返し演説した。その言葉は慎重に、しかし直接的に選ばれた。
「これがミレニアムのお祝いを意味するなら、ルイ14世のようなものだ。跳ね橋を上げて、城の中に籠り、最も貧しい人々の上にシャンパンの堀を作って放尿する。俺はそんなことの一部にはなりたくない」——これは1999年のワシントンDCでの会議でのBonoの言葉だが、ダボスでも同様の直接性で世界のエリートたちに語りかけた。
ONE Campaignは2004年に立ち上げられた。当初はDATA(Debt, AIDS, Trade, Africa)という組織が前身だ。目標は明確だった——先進国のGDPの1%をアフリカへの援助に充てること。「1」という数字への説明がそのまま組織名になった。
Bonoはこう語っている——「俺はポップスターが世界を変えられると思うほど単純じゃない。でも、ポップスターが正しい人と同じ部屋に入るための鍵を持っていることは知っている」。
その「鍵」を、Bonoはダボスで、ホワイトハウスで、バチカンで、何度も何度も使い続けた。
💸 アフリカ債務免除——G8首脳への直談判
2005年7月、スコットランドのグレネーグルス。
G8サミット。Bonoは首脳たちの会場の外で、廊下で、食事の席で、一人また一人と話した。
Jubilee 2000運動から始まったアフリカ債務免除キャンペーンは、2000年から2005年の間に1,100億ドルの債務免除を実現していた。世界中から166カ国の市民2,400万人以上が署名した——ギネス世界記録だ。
しかしBonoにとって、それは「チャリティー」ではなかった。
「俺たちはチャリティーから正義へという旅をしていた(from charity to justice)」——Bonoはその転換をこう表現している。
グレネーグルスでは、G8が追加の債務免除と援助資金の約束を発表した。Bonoはその結果を「最も重要なサミット」と呼んだ一方、その後の約束履行の追跡調査に関わり続けた。
「俺は迷惑な存在だ。たくさんの人の靴の中の石だ。不平を言う車輪だ(I am a pest. I am a stone in the shoe of a lot of people. A squeaky wheel)」——Bonoは自分の役割をこう表現した。
ロックスターが世界を変えられるとは思っていない。でも、ロックスターが世界を変えようとしている人々の「石」になることはできる——それがBonoの信念だった。
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第3章で見えてくるのは、Bonoという人間の特異な能力だ。
彼はローマ法王をウィットで笑わせ、マンデラに謙虚さを感じ、共和党大統領と政策を交渉し、ダボスのエリートたちに直接語りかけた。
思想的にも政党的にも正反対に見える人々と、同じテーブルに座り続けた。それに対する批判も受け続けた。
しかしBonoは一貫していた——「アフリカで子供が死んでいる。俺は誰とでも話す」。
その簡単な言葉の背景に、1985年のエチオピアの砂漠で過ごした6週間がある。あの砂漠の記憶が、Bonoをいかなる批判にも揺るがせない理由だ。🍀
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