
「ムーン・リバー」と「ピンク・パンサーのテーマ」が世界に届いた1960年代初頭、Henry Manciniの音楽的冒険は本格的に始まったばかりだった。
第1章で辿った「クリーブランドの少年からハリウッドへ」の旅は、実はManciniの全キャリアのほんの序章に過ぎない。彼はその後30年以上にわたって、映画音楽、テレビ音楽、アルバム録音、コンサート活動という四つのフィールドで、同時に頂点を走り続けた。
その全体像を第2章で追う。
🐘 「ハタリ!」と「ベイビー・エレファント・ウォーク」——Manciniの幅広さを示す一曲
1962年、Blake Edwardsではない監督との仕事が、Manciniの音楽的な幅広さを世界に示した。
Howard Hawks監督のアフリカ冒険映画「ハタリ!(Hatari!)」——スワヒリ語で「危険」を意味するこの映画は、ジョン・ウェイン主演で、アフリカの大地を舞台に動物捕獲者たちの物語を描いた作品だ。
この映画のスコアの中に、「ベイビー・エレファント・ウォーク(Baby Elephant Walk)」という曲がある。
小象が列を作って歩くシーンのために書かれたこの曲は、チューバの低音とクラリネットの軽快なメロディが絡み合う、ユーモラスで愛らしい小品だ。しかしこの「小品」が、世界中で独立したヒット曲として広まった。ジャズのグルーヴとサーカス音楽的なユーモアを組み合わせた独特のサウンドは、CMや子供向けの番組でも頻繁に使われ、今日でも世界中の人々が「あのメロディ」を口ずさむことができる。
グラミー賞「最優秀器楽編曲賞」を受賞したこの曲は、Manciniが「シリアスな感情」だけでなく「喜びとユーモア」の音楽も、同じ高いクオリティで書けることを証明した一例だ。
🎭 「シャレード」——オードリーとケーリー・グラントが踊った音楽
1963年、Manciniはもう一人の重要な監督と出会った。
スタンレー・ドーネン——「雨に唄えば」「パジャマゲーム」などのミュージカル映画で名を馳せた監督だ。ドーネンとManciniのコラボレーションは、最初の「シャレード(Charade)」から始まり、「アラベスク」「いつも二人で(Two for the Road)」など複数の作品にわたった。
「シャレード」はオードリー・ヘプバーンとケーリー・グラントが主演するロマンティックサスペンスだ。パリを舞台にした洗練されたストーリーに、Manciniは「パリらしさ」と「スパイ映画のスリル」を同時に体現するスコアを書いた。
タイトル曲「シャレード」はアカデミー賞「最優秀オリジナル歌曲賞」にノミネートされた。曲の洗練されたジャズのコード感覚と、どこかノスタルジックなメロディーは、パリの街角の空気をそのまま音楽に閉じ込めたような完成度を持っている。
「いつも二人で(Two for the Road)」(1967年)では、オードリー・ヘプバーンとアルバート・フィニーが主演した夫婦の回想録を、Manciniはビートルズ以降のポップミュージックの影響を取り入れた、より現代的なサウンドで描いた。これはManciniが「時代の変化」を音楽に取り込む柔軟性を持っていたことを示す好例だ。
🎯 「タッチ・オブ・イービル」——オーソン・ウェルズとの異色の出会い
Manciniのキャリアの中で、最も意外な組み合わせの一つが、1958年の「タッチ・オブ・イービル(Touch of Evil)」だ。
監督はオーソン・ウェルズ——「市民ケーン」を作った、映画史上最も革新的な監督の一人。この映画はメキシコとアメリカの国境を舞台にした、暗く複雑な犯罪ドラマだ。
Manciniはこの映画のスコアで、ラテン音楽の要素を大胆に取り入れた。ママンボのリズム、マリアッチ風のトランペット、そして緊張感を高めるパーカッション——これらが映画の冒頭の長回しのシーンから流れることで、国境という場所の混沌と危険を音楽で表現した。
この仕事はManciniがユニバーサルのスタッフとして在籍していた時代の集大成とも言える作品であり、Rotten Tomatoesの批評家評価で100%を獲得した「Experiment in Terror」(1962年)と並ぶ、Manciniの映画音楽家としての最高傑作の一つに数えられる。
🌹 「ローマの休日」——オードリーとの長い縁
Manciniとオードリー・ヘプバーンの関係は、「ティファニーで朝食を」だけにとどまらなかった。
1967年の「いつも2人で(Two for the Road)」でも共演した後、1979年の「ブルーミング」でも仕事をともにした。しかしその中で特に記憶すべきは、二人の最後のコラボレーションとなった1979年の「続・ピンクパンサー(The Return of the Pink Panther)」ではなく、オードリーの長年の音楽的パートナーとしてManciniが果たした役割だ。
オードリーはManciniについてこう語っている——「彼は俺のためだけに書いた(He wrote just for me)。彼の音楽は私の声と私の感情の両方を理解していた」。
二人は長年の友情を育んだ。Manciniがコンサートを行う際、オードリーが客席にいることは珍しくなかった。「ムーン・リバー」が演奏されるたびに、二人の間に流れる特別な感情があったと、当時の関係者は語っている。
🏆 アカデミー賞4冠の全記録——映画音楽の殿堂
Henry Manciniのアカデミー賞受賞歴を整理すると、その偉大さの輪郭が見えてくる。
第1回受賞(1962年):「ティファニーで朝食を」——最優秀ドラマ・コメディ映画音楽賞
第2回受賞(1962年):「ムーン・リバー」——最優秀オリジナル歌曲賞
第3回受賞(1963年):「酒とバラの日々」——最優秀オリジナル歌曲賞
第4回受賞(1983年):「Victor Victoria」——最優秀オリジナル音楽スコア賞
ノミネート回数は18回。受賞4回。受賞率は約22%——これは映画音楽の世界では非常に高い数字だ。
特に注目すべきは、第1回と第2回が同一映画での2冠という点だ。「ティファニーで朝食を」一本で、音楽賞と主題歌賞の両方を同年に受賞した。これは当時も今も極めて稀なことだ。
そして30年近いキャリアの後半に第4のオスカーを受賞した「Victor Victoria」は、Manciniが「過去の人」ではなく、1980年代においても現役の第一人者であり続けたことを証明している。
🐆 ピンク・パンサー・シリーズ——30年間のユーモアの友
1963年の「ピンク・パンサー」から始まったBlake Edwardsとのシリーズは、Manciniの長いキャリアにわたって続いた。
「ピンク・パンサーの逆襲(The Return of the Pink Panther)」(1975年)
「ピンク・パンサー3(The Pink Panther Strikes Again)」(1976年)——この作品の主題歌「Come to Me」がアカデミー賞にノミネートされた
「ピンク・パンサー4(Revenge of the Pink Panther)」(1978年)
「ピンク・パンサー5(Trail of the Pink Panther)」(1982年)——ピーター・セラーズの遺作出演となった作品
「ピンク・パンサー6(Curse of the Pink Panther)」(1983年)
「ピンク・パンサー7(Son of the Pink Panther)」(1993年)——Manciniが亡くなる前年まで続いたシリーズ
これだけの長期間、同一の主題曲を使い続けながら、各作品でその音楽を新鮮に聴かせ続けた——これはManciniのアレンジ能力の高さを示している。「ピンク・パンサーのテーマ」は映画ごとに微妙に異なる形でアレンジされ、毎回「あのテーマだ!」という喜びを観客に与えながら、しかし「またか」という飽きを感じさせなかった。
🎪 「グレート・レース」——ジャック・レモンとの笑いの音楽
1965年、Blake Edwards監督の「グレート・レース(The Great Race)」は、Manciniの映画音楽のもう一つの側面を見せてくれる。
ジャック・レモンとトニー・カーティスが主演する、20世紀初頭の自動車レースを題材にした大型コメディ映画だ。
Manciniはこの映画のために、旧時代の音楽スタイルを見事に再現しながら、現代的なセンスで仕上げたスコアを書いた。バーレスクのコミカルなブラス、ラグタイム風のピアノ、オペラのパロディ——これらが映画の楽しい雰囲気を完璧に支えた。
アカデミー賞「最優秀主題歌賞」(「The Sweetheart Tree」)ノミネートの他、この映画のスコアはグラミー賞でも評価された。
コメディ映画の音楽という、多くの作曲家が軽視しがちなジャンルで、Manciniは常に最高の仕事をした。「笑いを支える音楽は、悲しみを支える音楽と同じくらい、精密な計算が必要だ」——これがManciniの信念だった。
📺 テレビ音楽の革命者——「ピーター・ガン」から「リミントン・スティール」まで
映画音楽での成功と並行して、Henry Manciniはテレビ音楽の世界でも革命を起こし続けた。
第1章で触れた「ピーター・ガン」(1958〜1961年)は114エピソードの全スコアをManciniが担当した。そのサウンドトラックアルバムはRCA Victorから発売され、ミリオンセラーとなった。
続いて「ミスター・ラッキー(Mr. Lucky)」(1959〜1960年)のスコアも担当。このシリーズもまたジャズを基調にした洗練された音楽で高い評価を受けた。
1972〜73年には「ザ・マンシーニ・ジェネレーション(The Mancini Generation)」という自身の冠番組を持ち、テレビの音楽バラエティ番組のホストも務めた。
1980年代になっても、Manciniのテレビ音楽への貢献は続いた:
「ニューハート(Newhart)」(1982〜1990年)のテーマ
「ホテル(Hotel)」(1983〜1988年)のテーマ
「リミントン・スティール(Remington Steele)」(1982〜1987年)のテーマ
「デイビッド・レターマン・ショー」の「Viewer Mail」テーマ
さらに1983年のテレビミニシリーズ「ソーン・バーズ(The Thorn Birds)」のスコアは、エミー賞にノミネートされた。
これだけの長期間、映画とテレビの両方のフィールドでトップレベルの仕事を続けた音楽家は、20世紀のアメリカ音楽史においても非常に稀だ。
💿 RCA Victorと90枚のアルバム——イージーリスニングの帝王
Henry Manciniのもう一つの重要な顔が、アルバムアーティストとしての顔だ。
RCA Victorとの20年契約のもとで、Manciniは60枚の商業的なレコードアルバムをリリースした。そのうち8枚がゴールドアルバムに認定された。キャリア全体では90枚以上のアルバムを録音した。
これらのアルバムは「イージーリスニング」というジャンルの最良の形を体現していた。ジャズのコード感覚を持ちながらも、専門知識なしに楽しめる親しみやすさ。オーケストラの豊かな響きを持ちながら、ラジオで流せる軽やかさ。映画音楽で培った「感情に直接届く」メロディーラインを、コンサートホールでもリビングルームでも楽しめる形に整えた音楽。
「We Dig Mancini」——1965年、アニタ・カー・カルテットがManciniの曲をカバーしたこのアルバムがグラミー賞を受賞した、という事実は象徴的だ。自分の曲を他のアーティストがカバーしたアルバムがグラミーを獲る——それほどManciniの曲は「カバーする価値がある」と判断されていた。
Andy Williams、Frank Sinatra、Perry Como——これらの一流歌手たちが競ってManciniの曲を録音した。
「彼の曲は、聴く人を必ず特定の感情に連れていく。それが彼の曲が求められ続ける理由だ」——Andy Williamsはこう語っている。
🎺 Stanley Donenとの二つ目のコラボレーション——「アラベスク」
1966年、Stanley Donen監督との二作目の協力作品「アラベスク(Arabesque)」でも、Manciniは印象的なスコアを書いた。
グレゴリー・ペックとソフィア・ローレンが主演するこのスパイスリラーのために、Manciniはジャズとオーケストラを融合させた、緊張感と官能性が同居するスコアを作り上げた。
「ムーン・リバー」が「温かさと郷愁」を音楽で表現したとすれば、「アラベスク」のスコアは「危険と魅惑」を音楽で描いた。同一の作曲家が全く異なる感情的なレンジで仕事ができることを、この映画のスコアは証明している。
🏙️ 「テン(10)」——ボー・デレクとManciniの新しい挑戦
1979年、Blake Edwards監督の「テン(10)」は、当時の社会現象を起こした映画だ。ダドリー・ムーアとボー・デレクが主演したこのラブコメディは、「理想の女性を求める中年男性」というテーマで世界中でヒットした。
この映画でManciniが書いたスコアはアカデミー賞「最優秀オリジナルスコア賞」にノミネートされた。また挿入歌「It's Easy to Say」も「最優秀オリジナル歌曲賞」にノミネートされた。
映画の最も象徴的な場面——ボー・デレクがスローモーションでビーチを走るシーン——に流れるのは、Manciniの音楽ではなく、ラヴェルの「ボレロ」だった。しかしその場面の前後を支えるManciniのスコアが、映画全体の感情的なトーンを作り上げていた。
✨ 「Victor Victoria」——第4のオスカー、最後の頂点
1982年、Blake Edwards監督の「Victor Victoria」は、Henry Manciniのキャリアにおける最後の大きな頂点だった。
Julie Andrews、James Garner、Robert Prestonが主演するこの映画は、1930年代のパリを舞台に、女性が男性の振りをして女性のふりをするコメディという、入り組んだ設定の作品だ。
Manciniはこの映画のために、ミュージカル映画の伝統と現代的なジャズの感覚を融合させたスコアと楽曲を書いた。「Le Jazz Hot」「The Shady Dame from Seville」「Crazy World」——これらの曲は映画の軽妙な雰囲気と登場人物のキャラクターを音楽で完璧に体現した。
映画はアカデミー賞に7部門でノミネートされ、Manciniは「最優秀オリジナル音楽スコア賞」を受賞した——第4のオスカーだ。
これは1962年以来、20年ぶりのアカデミー賞受賞だった。「過去の巨匠」ではなく「現役の第一人者」として、Manciniは1982年においても世界最高の映画音楽家であることを証明した。
「Victor Victoria」は後に1995年にブロードウェイミュージカルとして舞台化され、Julie Andrewsが再びヒロインを演じた。Manciniはそのステージバージョンのために新しい音楽も書いた——映画から舞台へという、音楽の新しい旅だった。
🌙 晩年の活動——コンサートと後進への教育
1980年代から90年代にかけて、Henry Manciniはコンサート活動にも力を入れた。
ハリウッド・ボウルで29回公演を行ったほか、世界中の主要なコンサートホールでオーケストラを指揮した。彼のコンサートは「映画音楽のコンサート」というジャンルのあり方を変えた——それまでの映画音楽コンサートは「BGM」の域を出ないものが多かったが、Manciniのコンサートは映画音楽が「コンサートホールで聴くに値する音楽」であることを証明した。
後進の育成にも力を入れ、UCLAに音楽奨学金を設立した。John Williamsやその他の次世代作曲家たちへの影響についても、多くの証言がある。
1989年には「アメリカン・アカデミー・オブ・アチーブメント」のゴールデン・プレートを受賞。アメリカにおける文化的な功績を称えられた。
1992年、Manciniは自伝「Did They Mention the Music?」を発表した。音楽一家の出身でもない、製鉄の街の移民の息子がいかにして「ムーン・リバー」を書いた作曲家になったか——その旅の全記録だ。
🕊️ 1994年6月14日——Henry Manciniの旅の終わり
1994年6月14日、Henry Manciniはロサンゼルスの自宅で息を引き取った。70歳だった。膵臓癌による死だった。
死の直前まで、彼は「Son of the Pink Panther」(1993年)のスコアを書いた。最後の映画音楽作品だった。
翌1995年、アメリカ音楽界はManciniに追悼の「グラミー生涯功労賞」を贈った。
2004年、アメリカ郵政公社はHenry Manciniを記念した切手を発行した——指揮棒を手にした彼の肖像と、代表作のタイトルが刻まれた切手だ。アメリカが国家として「この人物の音楽は国民の遺産だ」と認めた証だ。
1997年、バークリー音楽大学がManciniに名誉音楽学位を授与した——ジュリアードの学業を戦争で中断された男への、音楽界からの遅れた卒業証書だった。
2024年、彼の生誕100周年を記念してハリウッド・ボウルで特別コンサートが開催された。Michael Bublé、Cynthia Erivo、Stevie Wonder、Herbie Hancock、John Williams——そしてManciniの娘Monica Manciniが参加したこのコンサートは、PBS全米放送された。100年経っても、彼の音楽は生きている。
🎵 Manciniが残したもの——映画音楽の文法を書き換えた男
Henry Manciniが映画音楽の世界に残した最大の遺産は何か。
それは「映画音楽がジャズであっていい」という事実の証明だ。
それ以前の映画音楽は、後期ロマン派のオーケストラスタイルが支配的だった。映画音楽はクラシック音楽の「下位ジャンル」として扱われる傾向があった。しかしManciniはジャズのリズム、コード、即興性を映画音楽に持ち込み、それが「劣化したクラシック」ではなく「独自の映画的言語」であることを証明した。
「ピーター・ガン」のジャズテーマが初めてテレビから流れた夜以来、映画音楽とジャズの関係は永遠に変わった。
次世代の映画音楽家たちへの影響も計り知れない。John Williams——「スター・ウォーズ」「シンドラーのリスト」の作曲家——は、Manciniの仕事から多くを学んだと語っている。David Newman、Patrick Doyle、Alan Menken——現代のハリウッドを代表する作曲家たちの多くが、Manciniを師と仰いでいる。
All About Jazzは「Manciniのメロディーは空気中に漂い続ける、溶けることのない糖蜜のようなものだ」と評した。複雑な技術を持ちながら、それを「難しく聴こえないように」届ける技術——これがMancini Soundの本質だった。
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クリーブランドのリトル・イタリーで生まれた少年は、製鉄の街でフルートを学び、11歳の映画館で夢を定め、戦争と修業の時代を経て、「ムーン・リバー」と「ピンク・パンサーのテーマ」という永遠の音楽を生み出した。
そして「Victor Victoria」でキャリアの黄昏に第4のオスカーを手にし、1993年の「Son of the Pink Panther」で最後の映画音楽を書き終えた。
映画音楽というジャンルが、彼の登場の前と後では別のものになった。
それがHenry Manciniという人間が、この世に存在した意味だ。🎹
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