
1928年5月12日、ミズーリ州カンザスシティ。
Burt Bacharachはこの世に生まれた。父親のBertは新聞のシンジケートコラムニストで、間もなく家族はニューヨーク市のフォレストヒルズへ移った。後にポップス史上最も影響力のある作曲家の一人となるこの男は、少年時代、実はフットボール選手になることを夢見ていた。
しかし母親のIrmaがそれを許さなかった。
Irmaは自身もアマチュアのソングライターであり音楽家だった。彼女は息子に、チェロ、ドラム、ピアノのレッスンを受けさせた。最初、BurtはこのことをあまりよくYの思っていなかったという。しかし音楽は少年の内側に、静かに、確実に根を張っていった。
10代になると、Burtは夜中にこっそりニューヨークのジャズクラブに忍び込むようになった。そこで彼が目撃したのは、ディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーだった。ビバップという革命的な音楽——複雑なコード進行、めまぐるしいテンポの変化、即興の爆発力——がBurtの耳と魂を完全に掴んだ。「あの二人が俺の最初の音楽的ヒーローだった」と、Bacharachは後に何度も語っている。
フットボール選手の夢は消えた。代わりに、全く別の種類の「フィールド」への情熱が芽生えた。
🎓 クラシックとジャズの間で——天才の教育
Burt Bacharachの音楽教育は、ポップスの作曲家としては異例なほど本格的なものだった。
マネス音楽学校(ニューヨーク)、バークシャー音楽センター、新社会研究学校、カナダのマギル大学、そしてサンタバーバラの西部音楽アカデミー——これだけの教育機関で音楽理論と作曲を学んだ。
特に重要だったのが、新社会研究学校でのダリウス・ミヨーとの出会いだ。ミヨーはフランスの近代作曲家で、「フランス六人組」の一員として知られる人物。ジャズとクラシックの融合を試みた革新的な作曲家であり、彼の指導がBacharachの後の作風に決定的な影響を与えたと多くの評論家が指摘している。複雑なコード構造を「難しく聴こえないように」仕上げる技術——これはミヨーから学んだものだという見方が有力だ。
音楽理論の学習と並行して、Bacharachは1940年代にいくつかのジャズバンドでピアノを弾いた。この実践的な経験が、後の彼の作曲に「演奏家の視点」をもたらすことになる。
🎖️ 軍隊と、マレーネ・ディートリッヒという師匠
1950年、Bacharachは陸軍に召集された。
2年間の軍務。しかしドイツに駐留中も、彼は音楽を離れなかった。軍内のダンスバンドのためにアレンジをし、ピアノを弾き続けた。除隊後、彼はプロの音楽家としてのキャリアを本格的に歩み始める。
Vic DamoneやSteve Lawrenceといった当時の人気歌手のピアノ伴奏者兼バンドリーダーとして働き始めたBacharachに、1956年に大きなチャンスが訪れた。
作曲家のPeter Matzが、マレーネ・ディートリッヒに彼を推薦した。ディートリッヒは当時、ナイトクラブのショーツアーのための音楽監督を探していた。
マレーネ・ディートリッヒ——「ブルー・エンジェル」と呼ばれたドイツ出身の伝説的な女優であり歌手。その圧倒的な存在感と芸術性の高さは、すでに伝説の域に達していた。このディートリッヒの音楽監督として、Bacharachは1958年から1964年まで世界ツアーに同行することになる。
この6年間は、Bacharachにとって最高の「実地教育」だった。
ディートリッヒは完璧主義者だった。リハーサルは徹底的に行われ、音の一つひとつに対して要求が高かった。「彼女は俺に、素材に対して常に誠実であることを教えてくれた」とBacharachは後に語っている。「何千人もの観客の前に立つ芸術家として、どういう姿勢で仕事をするべきかを学んだ」。
世界中の都市を巡るツアーの中で、Bacharachは多様な音楽に触れた。特に南米ツアーでボサノバという音楽に出会ったことは、後の彼の作風に計り知れない影響を与えることになる。
🏢 ブリルビル——ニューヨーク、52番街の音楽工場
1957年、ブリルビルの話をしなければならない。
ニューヨーク市ブロードウェイ1619番地に立つ、1911年建造の10階建てのオフィスビル。このビルは戦後のアメリカポップス界の「音楽工場」として知られていた。小さなオフィスに区切られた作業スペースに、無数のソングライターたちが入居し、毎日「ヒット曲の製造」に励んでいた。Neil Diamond、Neil Sedaka、Carole King、Gerry Goffin——後に名を残す多くの作曲家・作詞家がこのビルから生まれた。
このブリルビルで、Burt Bacharachはある男と出会った。
Hal David。1921年5月25日生まれ、ニューヨーク出身の作詞家。Halの兄のMac Davidとはすでに仕事をしていたBacharachだったが、弟のHalとの出会いは全く別の化学反応を起こした。
二人が最初に書いた曲は「I Cry Alone」だった。しかしすぐに彼らは、互いの才能が特別な形で補い合うことに気づいた。Bacharachが持ってくるのは、複雑なコード進行と予測を裏切るメロディの断片。Halが持ってくるのは、日常の感情を鮮やかに切り取る詩的な言葉。この二つが合わさると、どちらか一人では絶対に作れない何かが生まれた。
「毎日ファーモス・ミュージックで顔を合わせた」とHal Davidは後に回想している。「俺はタイトルのアイデアや歌詞の断片を持っていき、Burtはコーラス部分のフレーズやサビの骨格になりそうなものを持ってきた」。
この日常的な「積み上げ」から、やがて20世紀ポップス史に刻まれる数々の名曲が生まれることになる。
🌟 最初のブレイクスルー——「The Story of My Life」と「Magic Moments」
1957年末、Bacharach-Davidコンビは最初の大きな成功を味わった。
「The Story of My Life」——Marty Robbinsが録音したこの曲が、アメリカのカントリーチャートで1位を獲得した。続いて「Magic Moments」がPerry Comoによって録音され、こちらはポップチャートで大ヒット。そしてこの二曲は、一組のソングライターがUKチャートで連続1位を獲得した初めての例となった——音楽史上の記録だ。
しかしBacharachとDavidは、このブレイクスルーに満足しなかった。
Halは後にこう語っている——「俺たちは互いに他の作家と仕事をすることもあったが、ある時点でそれが自然になくなった。『これからは二人だけで書こう』と言い合ったわけじゃない。ただ、そうなっていった」。
1960年代の幕開けとともに、Bacharach-Davidコンビは本格的な黄金時代へと突入していく。
🎤 ディオンヌ・ワーウィックという発見——三角形の完成
1961年のある日、Bacharachはニューヨークのレコーディングスタジオにいた。
The Driftersのセッション録音の仕事だった。そのセッションのバックグラウンドシンガー(コーラス隊)の中に、一人の若い女性がいた。21歳のDionne Warwickだった。
Bacharachは彼女の声を聴いた瞬間、何かを感じた。
「彼女の声は、俺が書く複雑なメロディを、完璧に、そして自然に歌い切ることができた」とBacharachは後に語っている。通常のポップスの歌手には難しい——というより、ほとんどの歌手には不可能な——Bacharachのコード進行と拍子の変化を、Dionneは楽々と泳いでいくように歌った。
BacharachとDavid、そしてDionne Warwick。この三角形の完成が、1960年代のポップス史上最も豊かな創造的コラボレーションの一つを生み出すことになった。
Dionneのデビューシングルとなったのは「Don't Make Me Over」(1962年)。この曲はR&Bチャートと総合ポップチャートの両方でヒットし、新しい才能の登場を世界に知らしめた。
以来、Bacharach-DavidはDionneのためにほぼ専属的に曲を書くようになった。「Walk On By」(1964年)、「Anyone Who Had a Heart」(1964年)、「I Say a Little Prayer」(1967年)、「Do You Know the Way to San Jose?」(1968年)——次々と生まれるヒット曲は、どれも「ポップスの文法」を少しずつ書き換えていくような革新性を持っていた。
Dionneは後に20年以上にわたってBacharachの曲を録音し続け、3800万枚以上のレコードを売り上げ、38曲をチャートインさせた。
🎼 天才の作曲技法——なぜBacharachのメロディは他と違うのか
Burt Bacharachの音楽的な天才性を理解するためには、少し技術的な話をしなければならない。しかし難しい話ではない——「なぜあの曲はこんなに気持ちいいのか」という問いへの答えだ。
まず、拍子の扱い方について。
一般的なポップスは4拍子(4/4)で書かれる。聴く人が自然にリズムに乗れるように、規則正しく拍子が刻まれる。しかしBacharachはこの「予測可能性」を意図的に崩した。3/4拍子と4/4拍子を一曲の中で混在させ、時には5/4や7/8といった奇数拍子さえ取り入れた。
一例を挙げれば、「Promises, Promises」は3/4、3/4、4/4、3/4の拍子がめまぐるしく入れ替わる。しかしそれが「難しい」と感じる前に、メロディの美しさが脳を支配する。聴く人は気づかないうちに、複雑なリズムの中を泳がされている。
次に、コード進行の革新について。
Bacharachはジャズのコード語法を、ポップスの文脈に持ち込んだ。通常のポップスが避けるような音程の跳躍、予測を裏切る転調、曖昧な和音の解決——これらを「美しく聴こえる」レベルで処理する技術は、彼のクラシックとジャズの学習体験から来ている。
評論家のVarietyは2023年の追悼記事でこう書いている——「Bacharachの輝きの一部は、その見かけ上のシンプルさにある。彼の曲は音楽的に非常に洗練されており、複雑で、時には奇妙ですらある。ジャズとクラシック、ボサノバとウェスタン——さまざまな影響が組み合わさり、驚くべき、しかし一見なめらかに聴こえるキーと拍子の変化、珍しいボイシング——しかしそれらすべてにもかかわらず、数え切れないほどの人々の耳には、ただ美しい音楽として響く」。
ボサノバの要素の取り入れ方も独特だった。ブラジル音楽特有の柔らかい裏拍のリズム感、シンコペーション、そして「夢の中にいるような」浮遊感——これらをBacharachはポップスの土台に溶け込ませた。「The Look of Love」のゆったりとした官能的なグルーヴは、その最良の例だ。
🤝 「毎日会っていた」——Bacharach-Davidの創作プロセス
Burt BacharachとHal Davidのコラボレーションの方法は、職人的なまでに規則正しかった。
Halは後のインタビューでこう語っている——「ニューヨークのファーモス・ミュージックで毎日顔を合わせた。俺はタイトルのアイデアや歌詞の断片を持ってきた。Burtはコーラスの断片や、サビになりそうなフレーズを持ってきた。そこから二人でビルドアップしていった」。
Bacharachはメロディを先に書く場合が多かった。仮の言葉(スキャット的な音節)を乗せながら、メロディの形を固めていく。そのメロディをHalに渡すと、Halが「その音とリズムに乗る言葉」を見つけてくる。
このプロセスで重要なのは、Bacharachがメロディを書く際、歌詞の音節数に縛られないことだ。通常の作曲では「この行に何音節の歌詞が入る」という制約の中でメロディを書く。しかしBacharachは先にメロディを書き、後からHalが「その形に合う言葉を作る」方式を取った。これがBacharachの曲に特有の「言葉とメロディが一体化したような」感触を生み出している。
Halも天才的な作詞家だった。彼の言葉は平易で、しかし深い感情を持っていた。「What the world needs now is love, sweet love(世界が今必要としているのは、愛、甘い愛)」「Walk on by(通り過ぎて)」「What do you get when you fall in love?(恋に落ちたとき何を得る?)」——どれも一行読むだけで感情が動く。難しい言葉を使わずに、人間の感情の核心に触れる言葉を作る——これがHal Davidの才能だった。
💫 「Walk On By」から「I Say a Little Prayer」へ——黄金の1960年代
1964年から1968年にかけて、Bacharach-DavidとDionne Warwickの三角形は、ポップス史上最も豊かな時期の一つを生きた。
「Walk On By」(1964年)——失恋した後、偶然街で元恋人に出会ってしまう情景を歌った曲。イントロのボサノバ的なリズムとトランペットの絡み合い、そしてDionneのボーカルが作る独特の哀愁は、今聴いても全く色褪せない。
「What the World Needs Now Is Love」(1965年)——ジャッキー・デシャノンが歌ったこの曲は、ベトナム戦争の時代にリリースされた。「世界が今必要としているのは愛だけ」というシンプルなメッセージが、複雑なコード進行に乗って届いた。
「Alfie」(1966年)——映画「アルフィー」のための曲。Cilla Blackによって先にイギリスでリリースされ、その後Dionne Warwickがアメリカでレコーディング。アカデミー賞にノミネートされた。
「I Say a Little Prayer」(1967年)——ベトナムに送られた恋人のために祈りを捧げるという内容の歌詞。「髪をとかしながら、あなたのために祈る。コーヒーカップを手に取りながら、あなたのために祈る」という具体的な日常の行動を通じて、戦時下の不安と愛情を描いた。このナレーティブなアプローチは、当時のポップスとして革新的だった。
この時期、Bacharach-Davidはディオンヌのために書きながら、同時に他の多くのアーティストへの楽曲提供も行っていた。Tom Jonesへの「What's New Pussycat?」、Dusty Springfieldへの「The Look of Love」、Cilla Blackへの複数の曲——彼らの音楽は一人の歌手のものに留まらず、1960年代のポップス全体の「雰囲気」を形作っていった。
🌙 「The Look of Love」——ボサノバと官能性の融合
1967年の映画「カジノ・ロワイヤル」のために書かれた「The Look of Love」は、Bacharachの作曲技法の中でも特に際立った一曲だ。
Dusty Springfieldが歌ったこのバージョンは、ボサノバのリズムを基調としながら、ジャズのコード感覚と弦楽器の豊かな響きを組み合わせた傑作だ。テンポは非常にゆっくりとしており、Dustyのうっとりするようなボーカルと相まって、独特の官能的な雰囲気を作り出している。
アカデミー賞にノミネートされたこの曲は、后にSergio Mendes、Diana Krall、Isaac Hayesなど多くのアーティストにカバーされ、ジャズのスタンダードのような地位を築いた。
Bacharachはボサノバをただ「借用」したのではなかった。彼はボサノバのリズム感の本質——平和で、落ち着いた、しかし内側にグルーヴを秘めた感触——を理解した上で、それをアメリカのポップス文脈に溶け込ませた。それができたのは、ディートリッヒとの南米ツアーで実際にブラジル音楽と触れ合った体験があったからかもしれない。
🏆 アカデミー賞の頂点へ——「雨にぬれても」と「明日に向かって撃て!」
1969年、Bacharach-DavidはポップスとHollywoodの頂点に立った。
その年の映画「明日に向かって撃て!(Butch Cassidy and the Sundance Kid)」——ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが主演した西部劇。監督はジョージ・ロイ・ヒル。Bacharach-Davidはこの映画の音楽を全面的に担当した。
主題歌「Raindrops Keep Fallin' on My Head(雨にぬれても)」。B.J.トーマスが歌ったこの曲は、映画の中でニューマンが自転車に乗りながら流れる、あの有名なシーンと共に世界中に広まった。
この曲の面白さは、西部劇の映画主題歌でありながら、全く「西部劇らしくない」点にある。銃声も、馬の蹄の音も、荒野の孤独感もない。あるのはポップでお洒落な、どこか楽天的なメロディと、「雨に濡れても、俺は文句を言わない」という開き直った歌詞だ。
「俺たちが書きたかったのは、あの二人のキャラクター——諦め悪く、でも明るい無法者たち——の感覚だった」とBacharachは語っている。
この一曲で、「雨にぬれても」はアカデミー賞「最優秀主題歌賞」を受賞。そして「明日に向かって撃て!」のスコア全体でも「最優秀音楽賞」を受賞。さらにグラミー賞でも受賞。一映画のために二つのアカデミー賞を同時に獲得したのは、当時としては極めて稀なことだった。
翌1970年には、Burt Bacharach Specialというテレビ番組でエミー賞も受賞。そしてミュージカル「Promises, Promises」のキャストアルバムでグラミー賞。
これほどまでの受賞記録は、20世紀ポップス史の中でも突出している。
🌙 別れと再生——Hal Davidとの決裂、そして次の章
しかし黄金時代には、必ず終わりが来る。
1973年、Bacharach-Davidコンビは「ロスト・ホライズン」という映画の音楽を担当した。この映画は興行的にも批評的にも大失敗に終わった。Bacharachは後に「デル・マーのビーチに行って、しばらく姿を消した。それほどの大失敗だった」と語っている。
この失敗がきっかけとなり、BacharachとHal Davidの間に亀裂が生じた。双方が相手を訴える事態にまで発展し、15年以上続いた創造的なパートナーシップは終わりを迎えた。
しかしBacharachは、ここで終わる男ではなかった。
1980年代、彼は作詞家のCarole Bayer Sagerとパートナーシップを結んだ(二人は後に結婚する)。二人が書いた「That's What Friends Are For」は、DiXonne Warwick、Elton John、Gladys Knight、Stevie Wonderという豪華なキャストで録音され、AIDS慈善活動のアンセムとなった。この曲で、BacharachはグラミーとAIDSの認知度向上に大きく貢献した。
そして「Arthur's Theme (Best That You Can Do)」——映画「アーサー」のためにCarole Bayer Sagerと書いたこの曲で、1983年に三度目のアカデミー賞を受賞した。
1990年代になると、BacharachはElvis Costelloとのコラボレーション(アルバム「Painted From Memory」)や、新世代のアーティストたちからの再評価によって、文化的なルネッサンスを経験した。Oasisのノエル・ギャラガーが「Bacharachは俺の最大のインスピレーションの一人だ」と公言し、Stereolab、Pizzicato Fiveなどのアーティストがそのサウンドへのオマージュを捧げた。
2023年2月8日、Burt Bacharachはロサンゼルスの自宅で息を引き取った。94歳だった。
1928年のカンザスシティから、フォレストヒルズのジャズクラブへ忍び込んだ少年時代、マレーネ・ディートリッヒとの世界ツアー、ブリルビルでのHal Davidとの出会い、Dionne Warwickとの黄金のトライアングル、そしてアカデミー賞3冠——その全てが、一人の人間の中に収まっていた。
73曲のアメリカTop 40ヒット。52曲のUK Top 40ヒット。1000人以上のアーティストによる録音。6度のグラミー賞。3度のアカデミー賞。
しかし数字より大切なものがある。
世界中の人々が、Bacharachの音楽を聴いて「気持ちよくなった」という事実だ。複雑なことは何も知らなくていい。拍子の変化もコードの技法も知らなくていい。ただ音楽が流れてくると、何かが体の中で動く——それがBurt Bacharachの本当の遺産だ。🎹
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著者:(Toshiro Mori)
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