

2026年5月、82歳のダイアナ・ロスが、11年ぶりに日本のステージに立った。横浜のKアリーナと、28年ぶりの大阪城ホール。団地の少女が足を踏み鳴らして歌い始めてから、60年以上。その声が、いまも海を越えて、人々を集めている。
第1章では、ブリュースター団地から「ノーヒット・スプリームス」を経て、12曲の全米No.1を放ち、1970年1月にラスベガスのステージを降りるまでを辿った。第2章は、その続きだ。「三人」から「一人」になった彼女が、どんな山を越えてきたのか。映画、ディスコ、巨大な野外コンサート、古い友人との確執、そして80歳を超えた現在まで。
ここでもまた、栄光の物語は、平坦な道のりではなかった。ソロに転じた彼女が最初に出した曲の題名は、「Reach Out and Touch」。二曲目は、「Ain't No Mountain High Enough」——どんな山も、私を止められない。その言葉通りの旅を、順に追ってみたい。
🏔️ 「Ain't No Mountain High Enough」——1970年、ソロ第一歩で全米1位
1970年1月14日の別れのステージから6日後、ダイアナ・ロスは、スタジオにいた。最初のソロ・シングル「Reach Out and Touch (Somebody's Hand)」を録音するために。ベリー・ゴーディは、彼女のソロ転向を、何年も前から見据えていた。「ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス」という名前に変えた日から、彼の計画は、静かに、確かに、進んでいたのだと思う。
4月に発売されたこのシングルは、全米20位。悪くない数字だけれど、「スプリームスのダイアナ」を知る人々の期待に、まだ十分に応えたとは言えなかった。そこでゴーディが、彼女のために選んだのが、ニコラス・アシュフォードとヴァレリー・シンプソンのコンビだった。ソングライター兼プロデューサーとして、のちに「アシュフォード&シンプソン」の名前で知られる二人は、ダイアナの最初のソロ・アルバムを手がけることになる。
そのアルバムの中核になったのが、「Ain't No Mountain High Enough」だ。もともとは、1967年にマーヴィン・ゲイとタミー・テレルが歌った、二人の掛け合いのデュエット曲。それを、アシュフォード&シンプソンは、ダイアナが一人で歌う形へと、大胆に作り替えた。冒頭は、囁くような語り——ダイアナが、静かに「聴いて」と語りかける部分から始まる。オーケストラが少しずつ盛り上がり、やがて、一気に高みへと開けていく。アルバム版は6分を超える長い曲で、まるで一本の映画のような構成を持っている。
ところが、ゴーディは、この曲をシングルとして出すことに、乗り気ではなかったと言われる。しかし、ラジオのDJたちが、アルバムの中でこの曲だけを繰り返し流し始めた。リスナーの反応が、会社の判断を追い越していく。短く編集されたシングル版は、1970年9月、ついに全米1位に上りつめ、3週間、その座に居続けた。グラミー賞にもノミネートされたが、ディオンヌ・ワーウィックの「I'll Never Fall in Love Again」に賞を譲った。
この曲の魅力は、何度聴いても、その「開放感」にある。どんな山も、どんな谷も、どんな川も、あなたのもとへ行くのを止められない、という愛の歌。けれど、1970年のダイアナが歌うと、それは別の意味を帯びて聴こえる。スプリームスという巨大な看板を降りた女性が、「どんな山も、私を止められない」と、一人で歌い上げているのだ。恋人に向けた歌が、そのまま、自分自身への宣言になる。私はこの曲を、「ソロ・ダイアナの産声」として聴いている。
最初の二年ほどのあいだに、ダイアナは、立て続けにアルバムを出した。1970年の『Diana Ross』、同じ年の『Everything Is Everything』、そして1971年の『Surrender』。ソロ・アーティストとしての「自分の声」を探すように、彼女は、ソウルも、ポップも、さまざまなスタイルを次々と試した。スプリームスの「型」から解き放たれた自由と、「一人で立つ」不安。その両方が、この時期のレコードの端々に、かすかに揺れているように思う。
1971年には、「I'm Still Waiting」が、彼女にとって初めての全英1位に輝いた。団地の少女から、一人の「世界の歌手」へ。その歩みの最初の一歩が、こうして鮮やかに踏み出された。同じ頃、彼女は初めてのソロ・テレビ特番『Diana!』にも出演し、レコードだけでなく、映像の世界にも、少しずつ領域を広げていく。ゴーディの頭の中には、すでに、次の大きな計画があった。
🎬 『Lady Sings the Blues』——ビリー・ホリデイを演じた女優ダイアナ
ゴーディの野心は、レコード会社の枠に収まらなかった。彼は、モータウンの映画部門を立ち上げ、その最初のスターとして、ダイアナを据えようとしていた。企画されたのは、伝説的なジャズ歌手ビリー・ホリデイの半生を描く映画『Lady Sings the Blues』(1972年)。彼女にとって、初めての映画出演であり、しかも歴史に残る歌手の役だった。
ビリー・ホリデイは、貧しさと差別と薬物依存の中で、ジャズの歴史に消えない声を残した人物だ。それを、スプリームスの少女、モータウンのポップ・スターが演じる。当時、多くの人が、その挑戦を危ぶんだと言われる。けれどダイアナは、ビリー・ホリデイを「真似する」のではなく、彼女の歌の魂を、自分自身の声と身体で「生きる」ことを選んだ。
結果は、驚くべきものだった。映画は評価され、ダイアナはゴールデン・グローブ賞を受賞し、アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされた。サウンドトラック・アルバムは、全米アルバム・チャートで1位に上りつめ、彼女のキャリアで唯一の、ソロ名義でのアルバム1位となった。スプリームス時代の「ガール・ポップ」の少女が、ビリー・ホリデイの暗く深い世界を歌って、観客を圧倒した。
ここで、私は、ダイアナ・ロスという人の本質について、あらためて考えさせられる。彼女は「歌手」であると同時に、「演じる人」でもある。三人組のステージで、カメラの前で培った、「見られること」への鋭い感覚。それが、スクリーンの上で、初めて全面的に花開いた。ビリー・ホリデイを演じることは、スプリームスの優等生的なイメージから、自分を解き放つ試みでもあったのだと思う。
続く1973年には、「Touch Me in the Morning」が全米1位を記録した。恋人との別れを、静かな朝の光のなかで歌うこの曲は、それまでの軽快なヒット曲とは違う、大人の哀愁をたたえていた。1975年には、ゴーディ自身が監督を務めた映画『Mahogany』に主演する。映画の評価は厳しいものだったが、主題歌「Theme from Mahogany (Do You Know Where You're Going To)」は、1976年に全米1位となり、アカデミー賞の歌曲賞にもノミネートされた。映画は不評でも、歌は残る。そのことを、この主題歌は教えてくれる。
映画『Mahogany』のあと、ダイアナは、ブロードウェイの舞台にも立った。1976年から77年にかけて、ひとり舞台『An Evening with Diana Ross』を上演し、1977年には、その功績に対して特別トニー賞が贈られた。スプリームスの少女は、レコードと映画と舞台、三つの世界で、それぞれの頂点に触れた。その幅の広さは、今から振り返っても、驚くほどだ。
🕺 「Love Hangover」と『The Wiz』——ディスコの女王、そしてMichael Jacksonとの共演
1976年の「Love Hangover」は、ダイアナのキャリアのなかでも、最も特別な曲の一つだ。曲は、ゆったりとした、少しけだるいバラードで始まる。恋に落ちた朝の、ぼんやりとした幸福感。そして、突然、ビートが跳ね上がり、ディスコのダンス・グルーヴへと変わる。この「二つの顔」を持つ構成が、当時の聴き手を魅了し、曲は全米1位になった。
1970年代後半のディスコの流行は、ダイアナにとって、新しい舞台になった。もともと、モータウンのポップ・ソウルを歌ってきた彼女だが、ダンスフロアのためのビートに乗ると、その軽やかな声が、驚くほどよく映えた。彼女の伸びやかな高音と、きらめくような存在感は、ミラーボールの下で、新しい意味を持ち始める。「ディスコの女王」と呼ばれるようになったのは、自然な流れだったと思う。
1978年、ダイアナは映画『The Wiz』(ウィズ)に主演する。「オズの魔法使い」を、黒人コミュニティを舞台に翻案したブロードウェイ・ミュージカルの映画化だ。彼女が演じたのは、主人公のドロシー。ところが、そのとき彼女は、34歳。少女であるはずの役を演じるには、年齢が高すぎるという意見が多かった。それでもダイアナは、この役を自分のものにするため、制作側に熱心に働きかけたと言われる。
『The Wiz』の撮影現場には、もう一つの歴史的な出会いがあった。かかしの役で出演していた若きマイケル・ジャクソンと、音楽を担当していたクインシー・ジョーンズが、ここで初めて出会ったのだ。マイケルが「誰か、僕に合うプロデューサーはいないかな」とつぶやくと、クインシーが「僕じゃ駄目かな?」と返した——クインシー・ジョーンズの伝記でもよく語られる、有名な逸話だ。そして二人のタッグは、「Off the Wall」「Thriller」「Bad」という、ポップ音楽史の頂点を生み出すことになる。ダイアナが主演した映画の撮影現場から、一つの時代が始まったのだ。
映画のなかでダイアナとマイケルが歌った「Ease on Down the Road」は、道を歩きながら、お互いに励まし合う、軽やかで温かなナンバーだ。このデュエットでは、まだ「Thriller」以前のマイケルが、おそるおそる、しかし確かな輝きで、ダイアナの隣に立っている。二人のスターが、一つの黄色いレンガの道を歩く。その光景に、のちの時代の予感が、すでにかすかに差し込んでいる。
映画そのものは、興行的にも批評的にも、厳しい結果に終わった。ダイアナが歌った曲を集めたソロ・アルバムの企画も、映画の不振によって、公開が見送られたと伝えられる。けれど、成功しなかったことが、そのまま作品の価値を決めるわけではない。ダイアナが全力で挑んだこの挑戦は、彼女の「失敗を恐れない」姿勢を、はっきりと示している。
1970年代の終わり、ダイアナは、三つの世界——レコード、映画、舞台——を駆け抜けた末に、あらためて「歌」に立ち返ろうとしていた。次に彼女が選んだ相手は、ディスコの最前線を走っていたバンド、Chicだった。
🎶 Chicとの『diana』——「Upside Down」と「I'm Coming Out」
1980年、ダイアナはナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズ——Chicの二人——と組み、アルバム『diana』を作る。「Le Freak」や「Good Times」で世界のダンスフロアを揺らしていた二人は、ダイアナのために、まったく新しい曲を書き下ろした。モータウンの社内でも、この企画は、ある種の賭けのように見られていたと言われる。
「Upside Down」は、イントロから、すでに格好いい。乾いたギターのカッティングと、うねるベースライン。その上に、ダイアナが、突き放すような涼しさで、恋に人生を引っくり返された、と歌う。曲はこの年、全米1位となり、一か月近く、その座にとどまった。ダイアナにとって、1976年の「Love Hangover」以来の全米1位だった。ここには、もう「団地の少女」の面影はない。ダンスフロアの女王としての、凛とした声がある。
「Upside Down」のギターは、ナイル・ロジャース自身のカッティングで、短い音の積み重ねが、曲全体の推進力になっている。一音ごとに、余白がある。その余白のなかに、ダイアナの声が、まるで猫のように、すっと滑り込んでくる。声を張り上げるのではなく、リズムの隙間に身を預ける。それは、1960年代の「Where Did Our Love Go」で見せた「引き算」の美学が、ディスコの時代に、新しい形で蘇ったものだと思う。
もう一つの代表曲「I'm Coming Out」には、有名な誕生秘話がある。ナイル・ロジャースは、ニューヨークのゲイ・クラブを訪れたとき、ダイアナ・ロスの扮装をした男性たちを何人も見かけたという。その光景に心を打たれた彼は、ダイアナのために、自分自身を解放する歌——「私は出ていく」と宣言する歌——を書いた。曲は全米トップ10に入り、世界中で、解放と自己肯定のアンセムとして歌われるようになった。
ところが、このアルバムの制作は、順風満帆ではなかった。完成した音源を聴いたダイアナは、ミックスの仕上がりに強い不満を抱いたと言われる。彼女は、モータウンの技術者の手で、アルバムをミックスし直させた。ロジャースとエドワーズは、この変更に、不本意な思いを抱いた。その対立の影響で、アルバムのジャケットには、参加したミュージシャンたちの名前が、一人も記載されなかった。
それでも、結果は圧倒的だった。『diana』は、ダイアナのキャリアで最も売れたスタジオ・アルバムとなり、1000万枚以上を売り上げたとされる。2020年には、Chicによる当初のミックスが、アナログ盤として初めて世に出た。同じ曲でも、ミックスの違いで、まったく別の顔を見せる。一つのアルバムに二つの人格がある。それは、ダイアナの声が持つ、不思議な柔軟性の証でもあると思う。
この曲たちは、ヒップホップの世界にも深く入り込んだ。「I'm Coming Out」は、1997年、ノトーリアス・B.I.G.の「Mo Money Mo Problems」にサンプリングされ、ふたたび全米1位の曲に生まれ変わった。1980年にディスコの床で鳴っていた音が、1990年代のヒップホップのチャートを制する。ダイアナの声は、時代と文化の境界線を、軽々と越えていく。
💞 「Endless Love」——Lionel Richieとの二重唱と、Motownとの別れ
1981年、ダイアナの人生に、もう一つの大きな転機が訪れた。映画『Endless Love』の主題歌である。作ったのは、当時まだコモドアーズのメンバーだったライオネル・リッチー。「Three Times a Lady」や「Still」といった甘いバラードで、すでにヒットメーカーの地位を築いていた彼が、ダイアナとのデュエットのために、美しい曲を書き下ろした。
曲は、1981年の8月15日から10月10日まで、9週間にわたって、全米1位の座にとどまった。さらに、ホット100、R&B、アダルト・コンテンポラリーの三つのチャートで、同時に1位を占めた週もあった。ダイアナにとって、キャリア最大のヒットであり、ソロ名義で6曲目、そして最後の全米1位となった。
この曲の魅力は、二人の声の重なりにある。ライオネルの低く温かな声と、ダイアナの軽やかな高音が、互いを包み込むように重なる。二人の間にある深い尊重が、そのまま歌のなかに映っているように聴こえる。二人は、1982年のアカデミー賞の授賞式で、この曲を一緒に歌った。それが、二人が揃ってステージで歌った、ただ一度の機会だったと言われる。曲はアカデミー賞の歌曲賞にも、ノミネートされた。
「Endless Love」が、40年以上を経た今でも、結婚式や記念日の定番として歌い継がれているのは、その「普遍性」のためだと思う。特定の物語に縛られず、ただ「あなたへの愛は終わらない」と歌う。恋の始まりにも、長い歳月を共に過ごしたあとにも、同じ歌がふさわしく響く。二人の声の温度が、その広がりを、そっと支えている。
だが、この大ヒットの舞台裏には、静かなドラマがあった。ダイアナは、すでにモータウンと決別する決断を下していた。RCAレコードが提示した契約は、当時として史上最高額とされる2000万ドルだった。ゴーディは、モータウンには、その条件に応じられないと、ダイアナに告げた。彼女は、RCAと契約を結ぶ。その契約から約2か月後、彼女は、モータウンのために、もう一曲、シングルを作ることになる。それが、「Endless Love」だった。RCAとモータウンの間の話し合いによって、このデュエットの録音だけは、特別に許されたのだ。
考えてみれば、不思議な巡り合わせだ。団地の少女を見出し、磨き上げ、世界の舞台へ送り出したゴーディの会社。その会社に、彼女は最後の全米1位を贈って、去っていった。それは、感謝だったのか、別れの挨拶だったのか。どちらでもあり、どちらでもなかったのかもしれない。ただ、そこには、二人の長い関係——ビジネスの、そして人間としての——の、複雑な余韻があった。
RCAでのダイアナは、新しい道を歩き始める。1981年の「Why Do Fools Fall in Love」、1982年のアルバム『Silk Electric』には、マイケル・ジャクソンが書き下ろした「Muscles」が収められた。ここにも、『The Wiz』の現場で始まった、ダイアナとマイケルの縁が見える。1985年のアルバム『Eaten Alive』のシングル「Chain Reaction」は、ビー・ジーズが作った曲で、翌年、全英1位に輝いた。
「Why Do Fools Fall in Love」は、1956年にフランキー・ライモン&ティーンエイジャーズが歌ったドゥーワップの名曲のカバーだ。ダイアナは、その古い歌を、軽やかなポップに作り替えて、全米7位のヒットにした。団地の少女の頃に耳にしたかもしれない、1950年代のラジオの記憶が、そこに静かに息づいているように思う。新しい契約、新しいレーベル、新しい挑戦。その真ん中で、彼女は、いつも少しだけ、自分のはじまりの場所を振り返っていた。
☔ セントラルパークの雨——1983年の伝説のコンサート
1983年7月21日。ニューヨークのセントラルパーク、グレート・ローン。ダイアナ・ロスは、巨大な野外コンサートのステージに立っていた。目的は、公園の子どもたちのための新しい遊び場を作るための、チャリティー。無料のコンサートに、およそ50万人——推定では40万人から、多い見積もりでは100万人近い——の観客が詰めかけた。
幕開けは、華やかだった。西アフリカのダンスを取り入れたパフォーマンスの後、ダイアナは、虹色の房飾りが揺れる、三宅一生のコートをまとって登場した。日本のデザイナーの作品が、ニューヨークの空の下で、世界中が注目するステージを彩った。その美しさは、いまも写真で語り継がれている。
ところが、空が暗くなる。強い風と、やがて、土砂降りの雨。機材は雨に叩かれ、観客はステージに押し寄せ始めた。混乱の中で、ダイアナは、ステージの上から、観客に落ち着くよう呼びかけ続けた。コンサートは、およそ45分で中断された。チャリティーのための物販のスタンドも、嵐で壊れてしまった。
普通なら、ここで終わりだ。けれど、ダイアナは、降壇するとき、翌日にもう一度やり直せないかと、提案した。彼女は、雨のせいで夢が半分で潰えることを、受け入れなかった。そして7月22日、ニューヨーク市の公園局の許可を得て、同じ場所で、コンサートが再び開かれた。今度は雨は降らなかった。同じように大きな観客が集まり、ダイアナは、予定していた完全なショーを披露した。
このコンサートは、アメリカのケーブル・テレビ局によって放送され、その映像は、のちにDVDとしても発売された。画面のなかの1日目は、雨に濡れて、風に煽られ、混乱している。けれど、ダイアナの表情には、不思議な落ち着きがある。嵐の中でも、観客から目を離さず、呼びかけ続けるその姿は、ステージに立つ人の責任感を、そのまま映しているように見える。映像を観るたびに、私は、スターとは荒天のなかでこそ、その真価が分かる存在なのだと思う。
私は、この二夜の物語を思うたびに、スプリームスの少女の頃の、「待ち続ける」姿を思い出す。ゴーディの家の前で、ドアを叩き続けた少女たち。拒まれても、通い続けた。そのしぶとさは、ダイアナの中に、確かに残っていたのだと思う。雨に洗われた1日目と、澄んだ空の2日目。その両方があったからこそ、この伝説は、特別な意味を持った。
このコンサートをきっかけに、3年後、セントラルパークには「ダイアナ・ロス・プレイグラウンド」が完成した。アメリカで最も有名な公園の一角に、彼女の名前が、いまも子どもたちの笑い声とともに残っている。あなたには、思い出に残る「雨の中のコンサート」の記憶が、ありますか。
💔 Motown 25とMary Wilson——「Someday We'll Be Together」の再会と確執
1983年3月25日。ロサンゼルスで、モータウン創立25周年を祝う特別番組「Motown 25: Yesterday, Today, Forever」の収録が行われた。放送は5月16日。マイケル・ジャクソンが「Billie Jean」で、初めてムーンウォークを披露した夜として、いまも語り継がれている。
その同じ番組で、もう一つの「事件」が起きていた。ダイアナ・ロス、メアリー・ウィルソン、シンディ・バードソングの三人が、10年以上ぶりに、同じステージに立ったのだ。曲は、1969年のあの曲、「Someday We'll Be Together」。「いつか一緒に」と歌っていた歌が、ようやく、現実に、三人の声で歌われる。ファンにとっては、夢のような瞬間のはずだった。
しかし、その舞台裏では、緊張が張りつめていたと伝えられる。当初は数曲のスプリームスのステージが予定されていたものの、ダイアナがインフルエンザを患っていたこともあり、「Someday We'll Be Together」の一曲に絞られたとされる。ステージの上では、ダイアナが一歩前に出ると、メアリーとシンディも前に出る。それに苛立ったダイアナが、メアリーの肩を押したとも報じられた。さらに、ゴーディを紹介する場面では、ダイアナがマイクを下げさせ、「それはもう手配済みです」と言ったとも伝えられる。
こうした場面は、放送用の編集では削られた。けれど、ニュースを通じて、世間に知れわたった。メアリー自身も、後に、自分たちの「一つになる瞬間」が台無しになり、曲を最後まで歌いきることもできなかったと、悔しさを語っている。三人が再会した夜は、同時に、二人の溝が、はっきりと世に出た夜でもあった。事実の細部は、語る人の立場によって食い違う。ただ、あの夜、何かが決定的に軋んだことは、多くの人が認めている。
思えば、第1章で、団地の少女たちが「分け合い」の中でグループを始めたことを、私たちは見てきた。メアリーが柔らかなバラードを、フローレンスが熱いソウルを、ダイアナがポップスを。三人の声が、それぞれの居場所を持っていた頃の、風通しのいい空気。それが失われたとき、残されたのは、一人の「スター」と、二人の「元メンバー」という、不均衡な構図だった。1983年のあの夜は、その構図が、はじめて公の舞台で、露わになった瞬間だったのかもしれない。
1986年、メアリーは自伝『Dreamgirl: My Life as a Supreme』を出版し、ベストセラーになった。続いて1990年には、続編の『Supreme Faith: Someday We'll Be Together』も出している。「あの時代を、内側から語る」という彼女の仕事は、スプリームスの歴史に、もう一つの確かな声を残した。ダイアナという「スター」の視点だけでは見えない、団地の少女たちの物語が、彼女の言葉によって、永遠に記録された。
2000年には、再結成ツアー「Return to Love」の計画が持ち上がった。ダイアナは、メアリーとシンディにも声をかけた。しかし、提示された条件は、あまりにも違っていた。報じられたところでは、ダイアナの出演料が約1500万ドルであるのに対して、メアリーには約400万ドル、シンディには100万ドル未満。二人は、この条件を不当だと感じ、ツアーへの参加を断った。ダイアナは、1970年代にスプリームスに参加したリンダ・ロウレンスとシェリー・ペインを招いて、ツアーを始める。しかし、高額なチケット代金への反発と、全盛期のメンバーが不在であることへの失望から、観客は減り、公演の半分ほどが中止になった。
2021年2月8日、メアリー・ウィルソンは、ネバダ州ヘンダーソンの自宅で亡くなった。76歳だった。ベリー・ゴーディは、モータウン家族の大切な一人を失ったことに、深い悲しみを表明した。1983年の夜から、38年。後年のパーティーで、ダイアナとメアリーが抱き合い、一緒に写真に収まったと報じられたこともある。二人の関係は、最後まで、一言では言い表せない複雑さを抱えたまま、メアリーは世を去った。
ここには、フローレンスの物語と同じ構造の、切実さがある。成功の物語は、いつも、誰かの「満たされなかった思い」と隣り合っている。「いつか一緒に」と歌った歌が、本当の意味で実現しなかったことを思うと、あの曲の明るいメロディーさえ、少し違って聴こえてくる。だからこそ、スプリームスの歌は、いまも、少しだけ切なく響くのだと思う。
🌍 1990年代以降——ワールドカップのPKから「Every Day Is a New Day」まで
1980年代の後半、ダイアナは、RCAでのキャリアを重ねながら、プライベートでも新しい人生を歩んでいた。1985年にノルウェーの実業家アルネ・ネスと結婚し、二人の息子をもうけた。そして1989年、彼女は8年ぶりに、モータウンへと戻る。かつて「もう終わった」と感じた場所に、年月を経て、もう一度戻ってくる。それは、人生にそうした「回帰」があることの、静かな証拠のように思える。
その少し前、1984年には、亡くなったばかりの旧友マーヴィン・ゲイを偲ぶ歌「Missing You」を歌った。ライオネル・リッチーが書いたこの曲は、モータウンの家族への、静かな追悼として、多くの人の心に残った。派手なヒット曲とは違う場所で、ダイアナは、時代の哀しみをそっと受け止める歌い手でもあった。
1994年6月17日。アメリカで開催されたFIFAワールドカップの開幕式、シカゴのソルジャー・フィールド。ダイアナは、ステージの中央に登場し、「I'm Coming Out」を歌いながら、スタジアムに設置された特製のゴールに向かって、PKを蹴ることになっていた。ボールがゴールに入れば、ゴールが二つに割れ、彼女がその間を走り抜けて大会の始まりを告げる、という演出だった。ところが、彼女のキックは、大きく外れた。それでもゴールは、予定通り、二つに割れた。世界中のテレビが、その瞬間を映した。
ここで、私は、ダイアナ・ロスという人の強さを、あらためて思う。完璧に決めるはずの瞬間を外しても、彼女は笑って走り抜けた。観客も、世界中の視聴者も、その姿に、不思議な親しみを感じたはずだ。完璧であることより、ほころびを笑いに変える度量。それは、スターが長く愛される、大切な条件の一つなのかもしれない。スプリームスの時代から、彼女は「完璧な女性」であることを求められ続けてきた。その彼女が、世界中の前で、あっけらかんとミスを笑ってみせた。そこに、私は、一種の自由を見る。
1999年、ダイアナは、モータウンからの最後のアルバム『Every Day Is a New Day』をリリースする。同名の曲は、全英トップ10に入った。「毎日が、新しい日」という題名は、この時期の彼女の姿勢を、そのまま表していたように思える。そして、2000年の「Return to Love」ツアーの顛末のあと、2004年には「Live Love Tour」を行うなど、彼女のステージは、世界各地で続いた。
2000年代の半ばに入ると、世間は、ダイアナ・ロスを「過去の偉人」として語り始める。けれど、彼女は立ち止まらなかった。ツアーを続け、テレビや授賞式に姿を見せ、そして次の段落で触れる数々の栄誉を受けながら、「現役のエンターテイナー」であり続けた。年齢を重ねるほどに、彼女の歌は、少しずつ、成熟の光を帯びていく。若い頃の、囁くような声が、年月を経て、深みのある温かな声に変わっていく。その変化そのものが、彼女の物語の一部になっているのだ。
🏆 栄誉の数々——ケネディ・センター名誉賞と大統領自由勲章
ダイアナ・ロスの受賞歴は、枚挙にいとまがない。1988年には、スプリームスのメンバーとして、ロックの殿堂入りを果たした。ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムには、二つの星が刻まれている。1977年には特別トニー賞。そして、グラミー賞では、何度もノミネートされながら、競争部門での受賞は一度もない。けれど、その代わりに、グラミー賞の最高の栄誉が、彼女に贈られた。2012年の、生涯功労賞だ。
2007年には、ケネディ・センター名誉賞を受賞した。アメリカの舞台芸術に貢献した人物に贈られる、国の最高の栄誉の一つだ。同じ年、BETアワードでも、生涯功労賞を受けている。ワシントンの舞台で、彼女は、団地の少女の頃には想像もしなかった形で、アメリカ国民から感謝を受けた。
この年のケネディ・センター名誉賞の同期には、映画監督のマーティン・スコセッシ、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソン、コメディアンのスティーヴ・マーティン、ピアニストのレオン・フライシャーがいた。ジャンルも世代も異なる顔ぶれが、同じ夜に、アメリカの文化の功労者として並ぶ。スコセッシは、The Bandの「The Last Waltz」を撮った人物でもある。音楽の歴史は、思いがけないところで、静かにつながっている。
2016年には、バラク・オバマ大統領から、大統領自由勲章を授与された。アメリカの民間人に贈られる、最高位の勲章だ。オバマは、ダイアナについて、気品を放ち、その影響は避けがたいという趣旨の言葉を述べた。2017年には、アメリカン・ミュージック・アワードの生涯功労賞も受けている。そして2023年には、スプリームスとして二度目のグラミー賞生涯功労賞を受賞し、ダイアナは、この賞を二度受けた初めての女性となった。
ギネス世界記録も、彼女の名を記している。アメリカとイギリスの両方で、最も多くのヒット・シングルをチャートに送り込んだ女性アーティストとして。数字は、いつも、物語の一部しか語らない。けれど、それでも、この数字は、彼女の歌が、どれほど長く、どれほど広く、人々に届いてきたかの、一つの証拠になっている。ホワイトハウスでの勲章も、ケネディ・センターのボックス席も、団地の廊下で歌っていた少女の声と、一本の線でつながっている。
これらの栄誉を、私は少し引いた目で見たい。団地の少女が、ホワイトハウスで勲章を受ける。それは、確かに、ひとつの「アメリカン・ドリーム」だ。けれど、その夢の裏側には、フローレンスの孤独や、メアリーとの溝や、ゴーディとの複雑な関係が、いつも静かに横たわっていた。栄誉は、物語の終わりではなく、その物語が、世の中に確かに受け取られた、という合図なのだと思う。競争部門でのグラミー賞が一度もないという事実も、考えてみれば、不思議で、そして興味深い。彼女の音楽は、ひとつの賞の枠に収まるには、あまりに広い場所を歩いてきたからだ。
受賞の席で、彼女はいつも、感謝の言葉を口にする。そのなかには、ベリー・ゴーディへの感謝も、スプリームスの仲間への感謝も、きっと含まれているのだと思う。受け取った栄誉の数だけ、手放したものも、あっただろう。それでも、前を向いて歌い続けるのが、ダイアナ・ロスという人だ。
⭐ 80歳を超えて——グラストンベリーの午後と、受け継がれる歌
2021年、ダイアナは、25枚目のスタジオ・アルバム『Thank You』を発表した。自ら共作・プロデュースしたこのアルバムは、グラミー賞にもノミネートされた。タイトルの通り、感謝に満ちた作品だ。世界が閉ざされていた時期に、彼女は、「ありがとう」という、いちばん簡素で、いちばん深い言葉で、世界に語りかけた。
2022年6月26日。イギリスのグラストンベリー・フェスティバル、ピラミッド・ステージ。日曜日の午後の、「レジェンド枠」に、ダイアナ・ロスは立った。イギリスでの公演は2008年以来。スプリームス時代からソロ時代まで、ヒット曲の数々を歌ったこのステージは、イギリスで310万人を超えるテレビ視聴者を集め、フェスティバルの歴史上、最大の視聴者数を記録したと伝えられる。
その午後の空気を、私は想像するしかない。けれど、想像するだけで、胸が熱くなる。何万人もの観客が、世代も国籍も超えて、同じ歌を口ずさむ。団地の少女が足を踏み鳴らして始めた歌が、60年の時を経て、イギリスの牧草地の上で、何万もの声に重なる。これ以上に美しい「円環」が、あるだろうか。
2024年には、クリスマス作品『Wonderful Christmas Time』を発表した。そして2025年の大晦日、ニューヨークのタイムズ・スクエアでのカウントダウンのステージにも、彼女は立った。年が変わる瞬間、世界中の視線が集まる広場に、80代の歌手が、堂々と登場する。それは、「現役」という言葉の、最も鮮やかな証明だった。
2026年は、「Diana in Motion」と名付けたツアーで、各地を巡った。ラスベガスのウィン・ラスベガスでは、2月のバレンタインの週の公演が完売し、10月にも、同じ劇場での公演が発表された。そして5月、日本。5月23日の横浜Kアリーナ、5月25日の大阪城ホール。11年ぶりの来日で、大阪では1998年以来、28年ぶりのライブだった。
横浜の夜には、サプライズが待っていた。ダイアナはYOSHIKIをステージに迎え、二人は、ダイアナの代表曲の一つ「If We Hold On Together」を、ピアノと歌で共演した。この曲は、1988年の映画『The Land Before Time』の主題歌として、日本でも長く愛されてきた。来場者の感想には、「82歳とは思えない」という言葉も見られた。団地の少女の歌が、60年を経て、日本の音楽家のピアノと重なる。それは、国境を越えて受け継がれていく「歌の旅」の、一つの象徴のように思えた。
「I'm Coming Out」は、いまも世界各地のプライド・パレードで、しばしば流れる。自分らしく生きることを祝う歌として、愛され続けているのだ。ダンスフロアで生まれた一曲が、ひとりひとりの人生の節目に寄り添う。ダイアナ・ロスの名前は、ヒット曲の数や賞の数だけでなく、そうした「人の人生に居場所を持つ歌」の数によって、これからも測られていくのだと思う。
家族の歌も、受け継がれている。娘の一人は、女優のトレイシー・エリス・ロス。息子のエヴァン・ロスも、俳優・ミュージシャンとして活動している。団地から始まった物語は、三世代にわたる、一つの大きな家族の物語へと広がった。
ダイアナ・ロスの歌が、これほど長く愛される理由を、私は「近さ」だと思う。1964年の「Where Did Our Love Go」で、囁くように歌った、あの耳元の声。それは、82歳になった今も、変わらない。大きな会場で、何万人もの前で歌っても、彼女は、一人ひとりの耳元で、そっと語りかけている。あなたが最後にダイアナ・ロスの歌を聴いたのは、いつでしたか。
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「Ain't No Mountain High Enough」——どんな山も、私を止められない。1970年1月の別れのステージから、半世紀以上。団地の少女は、映画と、ディスコと、雨のセントラルパークと、古い友人との確執と、数えきれない栄誉を越えて、いまも歌っている。
足を踏み鳴らす音から始まった物語は、まだ終わらない。🎤
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