
1988 , 毎朝、ウォークマンのイヤホンを耳に入れ、「Alphabet St.」をかけながら会社へ向かっていた。
「🎵yeah〜 yeah〜 yeah〜」——あの軽快なグルーヴが体に入ってくると、どんな朝でも少し気持ちが上がった。Princeという人物の音楽には、重力を軽くする何かがある。「Lovesexy」というアルバムに収録されたこの曲が、私の日々の通勤の気分を軽くした⤴️
第1章では、ミネアポリスの神童の誕生から「Purple Rain」の頂点までを辿った。第2章では、その頂点の後——「Around the World in a Day」から始まる「意図的な逃走」、「Sign O' the Times」という深化、Warner Bros.との壮絶な戦い、そして2016年4月21日のPaisley Parkまでを追う。
💜 「Around the World in a Day」——頂点からの意図的な逃走
「Purple Rain」が全米と世界を席巻していた1985年、Princeは誰もが予想しなかった選択をした。
次のアルバムを、「Purple Rain」の延長線上に置かない——それがPrinceの決断だった。
1985年4月にリリースされた「Around the World in a Day」は、サイケデリックな花の模様と中世的なイラストに彩られたジャケットを持ち、音楽的には「Purple Rain」とは全く異なる方向を向いていた。フラワーパワーとサイケデリック・ポップ、Middle Easternな音の質感——これは1967年のビートルズ「Sgt. Pepper's」への明確なオマージュであり、同時に「俺はもうPurple Rainの続編は作らない」という宣言だった。
なぜPrinceはこの決断をしたのか。
「Purple Rain」の成功は圧倒的だった。しかしその成功の大きさゆえに、次作への期待も重圧も、並外れたものになっていた。Princeは「期待通りのものを作ること」ではなく「自分が作りたいものを作ること」を選んだ——それが彼の本質だったからだ。
「Around the World in a Day」はBillboard 200で1位を記録した——「Purple Rain」の後の作品として、これは驚異的な数字だ。しかし「商業的には成功しているが、前作ほどではない」という評価が定着した。Princeにとってそれは、むしろ居心地の良い場所だったかもしれない。「Purple Rain」のような史上的な成功は、アーティストを「期待の檻」に閉じ込める——その檻から最初の一歩で逃げ出したのが、「Around the World in a Day」だった。
翌1986年の「Parade」では、映画「Under the Cherry Moon」のサウンドトラックを担当した。映画は批評的に失敗したが、アルバムの「Kiss」は全米1位を記録した。あのシンプルで削ぎ落とされたファンクの名曲——「U don't have to be beautiful to turn me on(美しくなくてもいい、俺を興奮させるには)」——は、Princeの「最小限で最大を表現する」能力の頂点の一つだ。
🎭 「Sign O' the Times」——時代の闇を直視した二枚組
1987年、Princeは最高傑作の一つとして語り継がれる2枚組アルバム「Sign O' the Times」をリリースした。
このアルバムのタイトル曲「Sign O' the Times」は、Princeの全キャリアの中で最も社会的なメッセージを持つ曲の一つだ。エイズの流行、ギャング、麻薬、自然災害、宇宙への問い——1980年代アメリカの闇を、ミニマルなビートと歌声だけで描き切った。
「In France a skinny man died of a big disease with a little name(フランスで痩せた男が、小さな名前の大きな病気で死んだ)」——エイズを「AIDS」と直接名指しせずに描写したこの一行は、当時の検閲を意識しながらも、明確にエイズ禍への言及だった。Princeが敬虔なキリスト教徒であり後にエホバの証人に改宗する人物でありながら、エイズ禍について歌ったことは、彼の道義的な誠実さを示している。
アルバム全体の音楽的な多様性は圧倒的だ——ファンク、ロック、ゴスペル、サイケデリック、アコースティック・バラード、エレクトロニック・ポップ。「If I Was Your Girlfriend」の性別を超えた親密さへの問いかけ、「U Got the Look」のシアリア・E(Sheena Easton)とのデュエット、「I Could Never Take the Place of Your Man」のロックギター——これほど多様なスタイルを一つのアルバムに収めながら、一貫したアーティスティックなビジョンを保つ能力は、Princeだけのものだ。
Rolling Stone誌はこのアルバムを「史上最も偉大なアルバム500選」(2003年版)の73位に選び、後の2020年改訂版ではさらに上位(61位)に引き上げた。「Purple Rain」よりも「Sign O' the Times」の方が、Princeの音楽的な深さを正確に示している——そう感じるリスナーも多い。
「Sign O' the Times」は、Princeが単なる「ポップスター」ではなく、自分の時代を真剣に見つめ、音楽でそれに応答しようとしたアーティストだったことを最も雄弁に示す作品だ。
🎵 「Lovesexy」と「Alphabet St.」——禁断のアルバムと通勤の記憶
1988年、Princeは「Lovesexy」をリリースした。
このアルバムには、リリース前から大きな話題があった。元々Princeは「The Black Album」と名付けたアルバムを完成させ、Warner Bros.も発売準備を整えていた。しかしリリースの5日前、Princeは突然「The Black Album」のリリースをキャンセルした。
理由についてPrinceは「悪魔的なエネルギーに満ちている」と語ったとされている。音楽的には「The Black Album」はダークでハードなファンクだった——それに対して「Lovesexy」は愛と光と神への讃歌として作り直された、という構図だ。
「The Black Album」はリリースされないまま、コレクターの間で最も価値の高いブートレグの一つになった。1994年に公式リリースされたが、その神秘的な「幻のアルバム」という位置づけは変わらなかった。
さて、「Lovesexy」の話に戻ろう。
このアルバムのジャケットは、また新たな論争を呼んだ——Princeが裸で花の上に座っているというアートワークで、一部の店舗では棚に置くことを拒否した。しかし音楽の内容は、ジャケットとは対照的に精神的な探求に満ちていた。
「Lovesexy」の「愛と性とスピリチュアリティ」の融合——これはPrinceというアーティストの核心テーマだ。「Dirty Mind」から始まり「Lovesexy」に至るまで、Princeは性と神を対立するものではなく、同じ「神聖な体験」の二つの側面として描き続けた。
そしてこのアルバムに収録された「Alphabet St.」——これが私の通勤の曲だった。
「Alphabet St.」は軽快で、ポップで、何より楽しい。あの跳ねるようなビート、「yeah〜 yeah〜 yeah〜」というコーラス——難しいことは何もない。ただ体が動く、気持ちが軽くなる、朝の通勤が少し特別になる。
世界的なトップ10ヒットとなったこの曲は、「Lovesexy」が「The Black Album」のキャンセル、ジャケット問題、アメリカでのチャート11位という「不振」の中にあった時期に、確かな光として輝いた。
Princeの音楽の素晴らしさは、「Sign O' the Times」のような深刻な社会的メッセージと、「Alphabet St.」のような純粋な喜びを、同じ人物が同じ時期に生み出せることにある。それが人間の幅の広さだ。
🏛️ Paisley Park——自分だけの王国を建てた男
1987年、Princeはミネソタ州チャンハッセンに「Paisley Park Studios」を完成させた。
総工費約1,000万ドル。65,000平方フィート(約6,000平方メートル)の巨大な施設は、録音スタジオ、ライブパフォーマンス会場、リハーサル室、編集室——すべてを一つ屋根の下に収めていた。紫と白を基調とした内装、廊下に飾られた無数のゴールドディスク、そしていたるところに置かれたPrinceの作品とシンボル——Paisley Parkは単なる「スタジオ」ではなく、Princeの宇宙そのものだった。
なぜPrinceはこれほど巨大な施設を、ミネアポリス近郊という「辺境」に建てたのか。
答えはシンプルだ——「ニューヨークでもロサンゼルスでもない場所で、自分の音楽を自分のペースで作りたかった」から。Paisley Parkがあることで、Princeは好きなときにスタジオに入り、好きなだけ録音できた。「インスピレーションが来たら、すぐに音にする」——この創作スタイルを最大限に実現する環境を、自ら構築した。
Paisley Parkには多くのアーティストが招かれ、コラボレーションが行われた。Sheila E.、Mavis Staples、Chaka Khan、Miles Davis——Princeが関心を持つアーティストたちがPaisley Parkに訪れ、音楽を共に作った。
Miles Davisとの交流は特に印象深い。Princeは1986年のアルバム「Tutu」の制作でMilesと接点を持ち、後にMilesのアルバムのために曲を提供することもあった。ジャズの帝王とポップの王子が、ミネアポリスの郊外で音楽を作った——この事実だけで、Princeの音楽的な世界の広さがわかる。
Paisley Parkは同時に、Princeが外の世界との距離を保つ「要塞」でもあった。ここに引きこもることで、Princeは音楽業界のノイズから自分を守り、自分の内側の声に集中し続けた。
2016年4月21日、PrinceはこのPaisley Parkで亡くなった。そして死後、Paisley Parkは一般公開され、博物館として訪れることができるようになった。今日、世界中からPrinceのファンがチャンハッセンを訪れ、あの紫の聖地に立つ。
⚔️ Warner Bros.との戦い——名前を捨てた日
1990年代、Princeは音楽史上最も著名な「アーティスト対レーベル」の戦いを繰り広げた。
争点は著作権と創作の自由だった。
Princeがアルバムを大量に録音しているのに、Warner Bros.がリリースを年に1枚に制限することへの不満。そして最大の問題——Warner Bros.はPrinceの楽曲の著作権を保有しており、Princeは自分の曲を「所有」していなかった。
「音楽家が自分の曲を所有できないことは、奴隷制と同じだ」——Princeは公の場でこう語った。強烈な言葉だが、その背景にある不満は本物だった。アーティストが生み出した音楽の著作権が、レコード会社に帰属するという当時の業界標準は、確かに不公平な構造を内包していた。
Princeの抵抗は、過激な形をとった。
1993年、Princeは自分の名前を発音できない記号——「♂」と「♀」を組み合わせたような独自のシンボル——に改名した。これは「Warner Bros.が持っているのはPrinceという名前の権利だ。その名前を捨てれば、俺は自由になれる」という論理だった。
コンサートや公の場に顔の頬に「SLAVE(奴隷)」という言葉を書いて現れたことも、この時期のPrinceの過激な抗議行動として語り継がれている。
音楽的には、この時期Princeは「Gold Experience」(1995年)「Emancipation」(1996年)という重要なアルバムをリリースした。「Gold Experience」の「The Most Beautiful Girl in the World」は全英1位を記録し、Princeがシンボル名義で最大のヒットを出した。
1996年、Princeはついにワーナー・ブラザーズとの契約を満了という形で決別した。そして1996年の「Emancipation」——「解放」という意味のこのタイトルのアルバムを、自身のレーベルNPG Records(New Power Generation Records)からリリースした。3枚組、36曲、186分——「俺はもう自由だ」という宣言が、このアルバムの形そのものに込められていた。
🔮 シンボルへの改名——「The Artist Formerly Known As Prince」
「The Artist Formerly Known As Prince(以前はPrinceとして知られていたアーティスト)」——この長い称号で呼ばれることになったPrinceの「シンボル時代」は、音楽的な実験と個人的な混乱が交錯した複雑な時代だ。
1993年から2000年の「シンボル時代」には、多くのアルバムがリリースされた——「Come」(1994年)、「The Black Album」公式盤(1994年)、「Gold Experience」(1995年)、「Chaos and Disorder」(1996年)、「Emancipation」(1996年)、「Crystal Ball」(4枚組、1998年)、「The Vault... Old Friends 4 Sale」(1999年)。
この時期のPrinceは「大量のアルバムをリリースする」ことで、Warner Bros.との契約義務を早期に果たし、自由になろうとした。音楽的なクオリティにばらつきが生じたことは否定できないが、この時期の作品群には後から再評価される傑作も含まれている。
個人的な面では、この時期Princeは最初の妻Mayte Garciaと1996年に結婚した。二人の間に生まれた息子Ahmir Gregoire Nelsonは、頭蓋骨の病気(頭蓋骨早期癒合症)で生後1週間で亡くなった。この悲劇は公にはほとんど語られなかったが、この時期のPrinceの音楽に流れる深い悲しみの源泉の一つだったと考えられている。
2000年、Warner Bros.との関係が完全に清算された段階で、Princeは「Prince」という名前に戻った。
「名前を変えたのは正しい選択だったか」と問われたとき、Princeはこう答えている——「選択肢がなかった。あの瞬間、あの行動が、俺にできる唯一のことだった」。
🌿 エホバの証人への改宗——信仰と音楽の新しい関係
2001年、Princeはエホバの証人(Jehovah's Witnesses)に改宗した。
これは多くの人にとって、Princeの最も驚くべき変化の一つだった——最も性的で挑発的な音楽を作り続けてきたアーティストが、最も保守的とされるキリスト教の一派に改宗した。
しかしPrinceの人生を振り返れば、この改宗はそれほど突然ではなかった。彼は幼い頃からてんかんの発作に苦しみ、母からは「神が守ってくれている」と育てられた。「Lovesexy」では愛と神と性の融合を歌い、「Sign O' the Times」の「Forever in My Life」ではシンプルな神への感謝を表現した。スピリチュアリティは常にPrinceの音楽の核心にあった。
改宗後、Princeの生活スタイルは大きく変わった。アルコールを飲まない、肉を食べない、暴力的なコンテンツを避ける——エホバの証人の信仰に従った生活を送りながら、Princeは近隣住民の家を訪問してエホバの証人の教義を伝えるという、通常の信者と同じ活動も行った。
この改宗が音楽に与えた影響は複雑だ。一方では、性的に過激な表現が減った。他方では、「Musicology」以降のPrinceの音楽には、新しい落ち着きと深みが加わった。スピリチュアルな探求が音楽の土台としてより明確になった。
「俺は神を信じている。しかし神のために音楽を作るのではなく、神が与えてくれた才能で音楽を作る」——Princeの音楽と信仰の関係を最も正確に表すのは、この言葉だと思う。
🎶 「Musicology」と復活——2000年代の再評価
2004年の「Musicology」は、Princeのキャリアにおける「第三の黄金期」の幕開けだった。
このアルバムがリリースされた文脈を理解するためには、2000年代初頭のPrinceの状況を知る必要がある。Warner Bros.との戦いと「シンボル時代」を経て、Princeはメインストリームから少し遠ざかっていた。新しい世代の音楽ファンにとって、Princeは「かつての大スター」であり、現在進行形の音楽家ではなかった。
「Musicology」は、そのイメージを一変させた。
アルバムのサウンドは、1980年代のファンクとR&Bの黄金期への回帰だった——派手なシンセサイザーや実験的な音響より、生のバンドサウンドとPrinceのボーカルとギターを前面に出した。「A WomAn」「Call My Name」「Cinnamon Girl」——これらの曲は、Princeが持つ最高の才能——メロディーの美しさ、リズムの精確さ、感情表現の深さ——をシンプルな形で届けた。
「Musicology」ツアーは、当時の年間ツアー興行収入ランキングでトップを争う成功を収めた。さらに革新的な試みとして、Princeはツアーのチケット代にアルバムの代金を含めた——コンサートに来た人は全員、アルバムをプレゼントとして受け取った。このビジネスモデルは音楽業界に衝撃を与え、「Musicology」のセールスチャートへの計上の仕方について議論を巻き起こした。
2004年のグラミー賞では、「Musicology」が最優秀R&Bアルバムと最優秀トラディショナルR&Bボーカルの2部門を受賞した。
続く2006年の「3121」はBillboard 200で初登場1位を記録し、2007年にはスーパーボウルXLIでのハーフタイムショーで伝説的なパフォーマンスを行った。土砂降りの雨の中、「Purple Rain」を歌うPrince——あのステージは「スーパーボウル史上最高のハーフタイムショー」として今も語り継がれている。
あなたは2007年のスーパーボウルのハーフタイムショーを見ましたか?雨の中の「Purple Rain」は、Princeの全キャリアを象徴するような演奏でした。
💊 2016年4月21日——Paisley Parkで何が起きたか
2016年4月21日午前10時7分、ミネソタ州チャンハッセン。
Princeは自分のPaisley Parkで亡くなっているのを発見された。57歳だった。
死因は、フェンタニル(オピオイド系鎮痛剤)の過剰摂取だった。
Princeが長年にわたって慢性的な股関節と膝の痛みに苦しんでいたことは、近しい人々には知られていた。1983年以来、数百回に及ぶコンサートでのパフォーマンス、激しいダンスと演奏——その代償が体に積み重なっていた。しかしPrinceはエホバの証人の信仰から手術を拒否していたとされ(輸血を要する可能性がある手術はエホバの証人の教義に反する)、痛みを鎮痛剤で管理していた。
2016年4月7日と14日のコンサートでは、Princeが体調不良であることが明らかで、7日のコンサートでは演奏中に倒れる場面があったとも報告されている。4月15日、Princeのプライベートジェットが緊急着陸し、病院で治療を受けたが、その翌日には「ただの風邪だ」と言って退院した。
6日後、彼は亡くなった。
Princeの死のニュースが世界に広まった瞬間、ミネアポリスのFirst Avenue——「Purple Rain」の時代にPrinceがライブを行ったクラブ——には、何千人もの人々が自然発生的に集まり、夜通しPrinceの音楽とともに泣き、踊り、歌った。
世界中の主要な建物がパープルにライトアップされた——エッフェル塔、ナイアガラの滝、ロンドン・ブリッジ、ニューヨークのワン・ワールド・トレード・センター。世界がPrinceの色に染まった夜だった。
Princeの死後、Paisley Parkで約2,000枚の未発表音源が発見されたことが明らかになった。彼は生涯を通じて大量の音楽を録音し、世に出さずに保存し続けていた。「死後に発見される音楽」——これはPrinceのもう一つの遺産だ。
⭐ Princeが残したもの——音楽の自由という遺産
Princeが世界に残したものを一言で表すなら——「アーティストは自分の音楽を完全に所有し、完全に自由でなければならない」という信念の、命をかけた実践だ。
Warner Bros.との戦い、名前の放棄、Paisley Parkという自己完結した王国の建設——これらはすべて、「音楽の創造と所有の自由」を守るための行動だった。Princeが命がけで戦ったこの戦いは、後のデジタル音楽時代における「アーティストの権利」の議論に先鞭をつけた。
Taylor Swiftが自分のカタログを取り戻すために戦ったとき、それはPrinceがすでに1990年代に歩んだ道の上にある。Taylor自身もPrinceへの敬意を公言している。
音楽的遺産として——Princeが残した録音の数は2,000枚以上の未発表音源を含め、現在も整理が続いている。既にリリースされた公式アルバムだけでも、そのカタログの幅と深さは他に類を見ない。
Rolling Stone誌は彼を「史上最も偉大なミュージシャン」の上位に位置づけ続けており、「Purple Rain」「Sign O' the Times」は時代を超えた傑作として語り継がれている。
しかし私がPrinceについて最も深く思うのは、彼が「才能と自由と信仰」を同時に生きようとした、その複雑さだ。性的に挑発的な音楽を作りながら、神への感謝を歌い続けた。商業的な頂点を極めながら、商業主義と戦い続けた。最高の技術を持ちながら、技術よりも感情を優先した。
「Music is music(音楽は音楽だ)」——Princeはシンプルにそう言った。ジャンルも、人種も、性別も、時代も——音楽の前ではすべて無意味だ。ただ音楽だけがある。
毎朝、「Alphabet St.」をウォークマンで聴きながら会社へ向かっていたあの日々——Princeの音楽は、私にとって「一日を始める力」だった。その力は今日も変わらない。
2016年4月21日にPaisley Parkで旅立ったPrinceは、今もあの紫の空間に流れ続ける音楽の中に生きている。🎹
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