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🇺🇲 第1章|チェロキーの祖母、軍隊、チトリン・サーキット——無名の時代のJimi Hendrix 〜|「Hey Joe」の夜——Chas Chandlerが見つけた天才と、1966年9月23日の片道切符

 

 

 

 

1969年8月、ウッドストック。朝日がのぼるころ、ステージに残った観客に向けて、一人のギタリストがアメリカ国歌を弾いた。ギターは、爆撃機の音を鳴らし、人々の悲鳴を鳴らし、そして、静かな祈りのような余韻を残した。ジミ・ヘンドリックス。ロック・ギターの歴史は、この人の前と後とで、まるで別の世界のように分かれてしまう。

 

けれど、あの炎のような音は、突然天から降ってきたものではない。シアトルの貧しい家に生まれ、母を早くに失い、一本弦のウクレレと5ドルの中古ギターから始まった、一人の少年の長い道のりがあった。この連載は、全3章で、その道のりを辿っていく。第1章は、1942年の誕生から、1966年9月にロンドンへ旅立つまで。第2章は、絶頂期の驚くべき天才ぶり。第3章は、彼が後世のギタリストたちに遺したものである。

 

この連載で、私が最も大切にしたいのは、「天才」という言葉の使い方だ。天才は、ある日突然、完成した形で空から降りてくるわけではない。誰かの貧しさや孤独や、少しの偶然や、無数の小さな選択が、静かに積み重なって、ある日、振り返ったときに「天才」と呼ばれる姿になっている。ヘンドリックスの少年時代を辿ることは、その積み重ねの一つひとつに、目を凝らす作業でもある。

 

第1章で描きたいのは、音の「前史」だ。のちに世界を揺らす音は、どんな場所で、どんな孤独のなかで、育っていったのか。ギターを手にした少年が、軍隊を経て、南部の巡業の旅を経て、ニューヨークの小さなカフェでようやく見出されるまで。その遠回りの一つひとつが、あとの伝説の、見えない土台になっている。

 

 


🌲 シアトルに生まれた少年——母ルシールと、ジョニーという名前

 

1942年11月27日、ワシントン州シアトル。ジョニー・アレン・ヘンドリックスは、この世に生まれた。母のルシールは、まだ17歳。父のジェームズ・アレン・ヘンドリックス、通称アルは、アフリカ系とアメリカ先住民の血を引く若い男だった。二人が結婚したのは、1942年の3月。ところが、それからわずか数日で、アルは第二次世界大戦の兵士として出征してしまう。生まれてくる子の顔を、彼は、すぐには見られなかった。

 

幼いジョニーは、父のいない家で育った。母ルシールは、遊ぶことが好きで、家庭を落ち着いて守ることが苦手だったと言われる。幼い息子を置いて、家を離れてしまうこともあった。ジョニーは、親類や知人のもとに預けられながら、最初の数年を過ごした。家族からは「バスター」というあだ名で呼ばれていたとも伝えられる。名前も、安定した「家」も、まだ定まらないまま、小さな子どもは、大人たちの間を渡り歩いていた。

 

1945年の終戦後、アルは、ようやく帰国する。そして、幼いジョニーを引き取った。父と息子の暮らしが、ここから始まる。アルは、息子の名前を、「ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス」に改めた。亡くなった自分の兄の名を、息子に引き継がせたのだと言われる。ジョニーは、こうして、ジミー——のちのジミ——になった。名前が変わるたびに、少年の人生も、少しずつ違う色になっていく。

 

私は、この「名前の揺れ」に、ヘンドリックスという人の本質の一端を見る気がする。生まれた名前、呼ばれた名前、そして、のちに自分で綴りを変えて名乗る「Jimi」という名前。固定された何かに、きちんと収まることのできなかった少年が、のちに、どんなジャンルにも、どんな枠組みにも収まらない音を作った。出自の不安定さは、彼の音楽の不思議な自由と、どこかで深くつながっているように思える。

 

アルとルシールの結婚は、長くは続かなかった。二人は離婚し、ジミーと弟のレオンは、父アルのもとで暮らすことになる。母は、完全に消えたわけではなかった。けれど、少年の記憶のなかで、母の姿は、いつも、少し遠く、少しはかない輪郭を持っていた。その「遠さ」が、のちの彼の歌に、静かに染みこんでいくことになる。

 

少年が育ったシアトルの中央地区は、黒人家族が多く暮らす街だった。当時のアメリカでは、北部や西部の都市であっても、住む場所や働く場所に、見えない境界線が引かれていたと言われる。その見えない線のなかで、貧しい家の少年は、自分の居場所を、静かに探していた。のちに彼が、あらゆる境界線——ジャンルの、人種の、国の——を軽々と飛び越える音を鳴らすのは、少年時代に、その線の存在を、肌で感じて育ったからかもしれない。

 

 


🦅 チェロキーの祖母ノラ——居留地の昔話と、「I Don't Live Today」の原風景

 

父アルの母、ノラ・ヘンドリックスは、ヘンドリックスの幼少期にとって、特別な存在だった。彼女は、チェロキーの血を引く女性で、かつて旅回りの芸人としても活動していたと伝えられる。ジミーは、たびたび、この祖母のもとに預けられた。カナダのバンクーバーで、祖母の家に滞在した時間もあったと言われる。

 

祖母ノラは、少年に、チェロキーの昔話を語って聞かせた。山と川と、動物たちと、風の音。言葉で語られる神話の世界は、貧しい少年の想像力に、静かに火を点けたはずだ。のちに彼が作る曲には、自然の気配や、宇宙的なイメージが、そこかしこに現れる。ギターの音が、風や雷や、遠い星の光のように響くのは、おそらく、幼い日に聞いた物語と、どこかでつながっているのだと思う。

 

ヘンドリックス自身は、後年、この祖母のもとで、インディアンの居留地で希望のない暮らしを送る人々の姿を、目の当たりにしたと語ったと伝えられる。この体験は、彼の楽曲「I Don't Live Today」に結実したと言われる。「今日を生きられない」という題名を持つこの曲は、絶望と叫びと、それでも続く生の痛みを、ギターの轟音と歪みに乗せて爆発させる。若い日に見た光景が、十数年後、世界を揺らす音になった。

 

祖母のもとで過ごした時間は、少年に、もう一つの大切なものを与えたと思う。それは、「語り」のリズムだ。昔話は、書かれた文字ではなく、声で受け渡される。抑揚、間、沈黙。それを聞きながら育った少年が、のちに、ギターで「語る」ようになるのは、ごく自然なことだったのかもしれない。ヘンドリックスのソロは、しばしば、言葉のない物語のように聴こえる。始まりがあり、起伏があり、静かな結末がある。その語りの作法は、祖母の膝の上で、すでに、学ばれていたのではないだろうか。

 

ここで、少し立ち止まって考えたい。ヘンドリックスの音楽は、しばしば「ブラック・ミュージックの継承者」として語られる。それは正しい。けれど、同時に、彼の中には、アメリカ先住民の血と、物語の記憶が流れていた。ブルースの哀しみと、先住民の昔話の神秘が、一人の少年の中で、ごく自然に混ざり合っていた。そのことが、のちの「ロックでもブルースでもソウルでもない、ヘンドリックスの音」を生んだ、一つの原風景だったのではないだろうか。

 

祖母ノラの家は、決して豊かではなかった。けれど、そこには、物語があった。貧しさのなかで、子どもに「想像する力」を渡すことは、大人にできる、いちばん大切な贈り物の一つだと思う。少年は、その贈り物を、ギターという道具を通して、世界に返していくことになる。

 

 


🏠 父アルとの暮らし——貧しさの中で守られた小さな部屋

 

父アルは、庭師として働いていた。仕事は不安定で、生活は決して楽ではなかった。ジミーと弟のレオンは、狭いアパートや間借りの部屋を転々としながら、父と一緒に、つつましい日々を送った。壁は薄く、お金はなく、それでも、父は、二人の息子を手放さなかった。母ルシールがいない家を、不器用なやり方で支え続けたのが、アルだった。

 

弟のレオンの存在も、大きかったと思う。母のいない家で、兄弟は、互いに、ほとんど唯一の味方だった。レオンは、のちに、兄の思い出を語る人になる。貧しい家の中で、二人の少年が、肩を寄せ合って、夜を過ごす。その光景を想像するだけで、ヘンドリックスの音楽に流れる、あのやさしさの源泉が、少し分かる気がする。

 

アルは、厳しい父親でもあったと言われる。感情を、優しい言葉で表すのが得意ではなく、しつけには、力が入った。ジミーにとって、父の存在は、頼りになると同時に、ときに息苦しいものでもあっただろう。それでも、のちにアルが、息子のために中古のギターを買い与え、電気ギターを工面したことは、貧しい暮らしのなかで、父が精いっぱい、息子の「好き」を守ろうとした証だと思う。

 

1958年2月、母ルシールが亡くなった。33歳だった。ジミーは、まだ15歳に届かない年齢だった。葬儀の日、ジミーと弟のレオンは、葬儀の場に連れて行ってもらえなかったとも、父が二人にウイスキーを飲ませたとも伝えられる。真偽の細部はともかく、この逸話は、父が、悲しみを言葉にする術を持たなかったことを、静かに物語っている。

 

少年は、悲しみを、言葉にできないまま、自分の部屋に持ち帰った。そして、その悲しみの行き場として、やがて、ギターが現れる。のちにヘンドリックスは、母の夢を見て、その夢から「Angel(天使)」という曲を作ったと言われる。亡き母が、夢の中に現れ、彼を見守る。この優しい曲に、ロックの烈しさの陰に隠れていた、もう一つの顔が、はっきりと見える。

 

壁の薄い部屋では、大きな音は出せない。ジミーは、きっと、小さな音量で、息を潜めるようにギターを弾き続けていたのだろう。音量に頼れない環境が、一つひとつの音の輪郭を、細やかに聴き分ける耳を育てた。そう考えると、のちの爆音の奥に、驚くほど繊細な表情が潜んでいる理由が、少し分かる気がする。

 

私は、ヘンドリックスの音楽を、「怒り」や「破壊」だけで語りたくない。烈しい音の奥には、いつも、置き去りにされた子どもの、小さな祈りがあった。母を失い、不器用な父と暮らし、貧しさの中で想像力だけを頼りに生きた少年。その孤独を知らずに、あのギターを聴くことは、きっと、できない。部屋の中で、誰にも聞こえない音量で弾き続けていた少年が、いつか世界中の耳を揺らす日が来るなんて、そのときは、誰も思わなかった。

 

 


🎸 15歳、5ドルのアコースティック・ギター——ギターとの出会い

 

ヘンドリックスとギターの出会いは、小さな偶然から始まった。1957年ごろ、父アルの仕事の手伝いをしていたとき、ジミーは、古い一本弦のウクレレを見つけた。彼は、その一本の弦で、エルヴィス・プレスリーの「Hound Dog」のメロディーを、耳でなぞった。楽譜は読めない。ただ、聴こえた音を、指で探り当てる。その遊びのような行為が、生涯にわたる音楽の、最初の一歩になった。

 

そして、1958年の半ば、15歳になったジミーは、ついに、自分のギターを手にする。父アルの知人から買い取った、中古のアコースティック・ギター。値段は、わずか5ドル。決して立派な楽器ではなかった。けれど、少年にとって、それは、世界で一番大切な宝物になった。毎日何時間も、彼はそのギターを弾き続けた。ほうきをギターに見立てて練習していたという逸話も、よく語られる。ギターのない時間でさえ、彼の指は、見えない弦の上を動き続けていたのだ。

 

当時のシアトルでも、ラジオからは、エルヴィスの歌声、ロックンロールの熱、そしてブルースの低い響きが流れていた。1957年には、エルヴィスのコンサートを観に行ったとも伝えられる。少年は、レコードとラジオを先生にして、見よう見まねで、少しずつ、自分の音を探していった。ギターの先生はいなかった。教本もなかった。あるのは、自分の耳と、指と、尽きない好奇心だけだった。

 

バンドに入る、ということは、少年にとって、音を「分け合う」ことを学ぶ時間でもあった。一人で部屋で弾いているときは、自分だけの世界でいい。けれど、バンドでは、ドラムの音、ベースの音、他のギタリストの音と、同じ空間で、一つの音楽を作らなければならない。ときに、衝突し、ときに、折り合いをつける。その経験が、のちの彼の、バンドの呼吸を読む力、インタープレイの感覚を、育てていったのだと思う。

 

アコースティック・ギターを手に入れてほどなく、ジミーは、最初のバンド「ヴェルヴェトーンズ」に加わる。ところが、仲間たちの音量に負けて、アコースティック・ギターでは、自分の音がほとんど聞こえない。三か月ほどで、彼は、はっきりと理解する。「電気ギターが要る」と。

 

1959年の半ば、父アルは、ついに折れて、白いスプロ・オザークの電気ギターを買い与えた。叔母のアーネスティンが、ジミーの音楽への情熱に気づき、アルに「電気ギターを買ってやるべきだ」と勧めたとも言われる。決して高価な楽器ではなかったけれど、このギターは、少年の音を、初めて「大きく」した。誰にも聞こえなかった音が、ようやく、人の耳に届くようになる。

 

ギターを手にした日のことを想像すると、私は、いつも胸が熱くなる。5ドルの楽器、一本弦のウクレレ、ほうき。貧しさのなかで、少年は、ありあわせの道具で、世界とつながる方法を探していた。あなたが最初に触れた楽器は、何でしたか。そのときの、あの「音が出る」という驚きは、いまも、体のどこかに残っていますか。

 

 


🔄 右利き用ギターを逆さに弾く——左利きが生んだ独自の音

 

ヘンドリックスは、左利きだった。ところが、当時、手に入るギターのほとんどは、右利き用だった。左利き用のギターは珍しく、高価で、貧しい少年には、とても手が届かなかった。そこで、彼は、右利き用のギターを、そのまま逆さに構え、弦を張り替えて、左手で弾くことを選ぶ。彼は、生涯、このやり方を貫いた。

 

当時、左利きの子が、左手でギターを弾こうとすると、周囲の大人たちは、それを「正しい」弾き方ではないと考えがちだった。父アルも、息子が左手で弾くことを、あまり好まなかったと伝えられる。けれど、ジミーは、止めなかった。右手で弾くことは、彼にとって、自分の体を裏切ることだった。逆さに構えたギターは、不格好に見えたかもしれない。けれど、その不格好さこそが、彼の音楽の「自然さ」だった。

 

ここで、技術的な面を、少しだけ考えてみたい。右利き用ギターを逆さにして弦を張り替えると、弦の並びが入れ替わり、ピックアップやブリッジの角度も、通常とは逆になる。そのため、音色にも、独特の癖が生まれると言われる。細い弦の音が、通常とは違う響き方をする。ヘンドリックスの、あの鋭いのに温かい、不思議な音色の一端には、この「逆さ」の構造が関わっていると考える人も多い。もちろん、それだけで、あの音が生まれたわけではない。けれど、制約の中で見つけた工夫が、そのまま個性になるという例として、これほど鮮やかなものはない。

 

彼は、のちに、世界的なスターになり、望めばどんな左利き用ギターでも手に入る立場になった。それでも、彼は、逆さに構えた右利き用のギターを、弾き続けた。それは、もはや「代用品」ではなかった。彼の身体と音楽が、その形で、完全に一致していたからだ。道具が、体の一部になる。その境地を、彼は、10代のうちに、すでに掴んでいたのだと思う。

 

同じように、ギターを逆さに構えて弾いた先人に、ブルースマンのアルバート・キングやオーティス・ラッシュがいる。ヘンドリックスは、そうした先人たちの存在に、勇気づけられたとも言われる。自分だけが特別なのではない。左手で弾く人は、昔から、ブルースの世界に確かにいた。その事実は、不格好なギターを抱えた少年にとって、静かな励ましになったはずだ。

 

もう一つ、彼について語られる事実がある。ヘンドリックスは、生涯、楽譜を読むことができなかった。譜面ではなく、耳と指で、すべてを学んだ。だからこそ、彼のギターは、理論の枠に縛られず、感情のままに、自由に動いた。「正しいやり方」を知らなかったことが、結果として、誰も思いつかないやり方を生んだ。教科書にない音は、教科書の外から生まれる。そのことを、ヘンドリックスの少年時代は、静かに教えてくれる。

 


📻 レコードとラジオが先生——ブルースとR&Bを独学で吸収した日々

 

ギターの先生がいなかった少年にとって、師と呼べる存在は、レコードとラジオだった。父アルが持っていたマディ・ウォーターズやB.B.キングのレコード。ラジオから流れてくる、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャードの熱気。エルモア・ジェイムスの鋭いスライド、ハウリン・ウルフの野太い声、ロバート・ジョンソンの亡霊のような響き。ジミーは、それらを、まるで乾いた砂が水を吸うように、体に染み込ませていった。

 

シアトルは、意外なほど音楽の豊かな街だった。ヘンドリックスが育った中央地区には、黒人コミュニティの活気があり、ジャクソン・ストリート周辺のジャズ・クラブの文化は、街の誇りだった。ヘンドリックスが通ったガーフィールド高校は、少し前に、クインシー・ジョーンズも通った学校だと言われる。クインシーが、少年時代にレイ・チャールズと出会ったのも、この街の音楽シーンのなかだった。同じ街の空気のなかで、のちに世界を変える二人の音楽家が、時期をずらして、同じ廊下を歩いていた。街の音楽の厚みが、少年の耳を、知らないうちに育てていたのだと思う。

 

彼の耳は、ギターだけに向けられていたわけではない。テレビのアニメーションの効果音や、背景音楽までも、熱心に真似していたと、幼なじみは証言している。ドラマ「ピーター・ガン」のテーマの、あの低くうねるギターの動きにも、彼は夢中になった。飛行機の音、ロケットの噴射音、風の音。のちに彼のギターが、爆撃機やサイレンや、宇宙の彼方の音のように鳴り響くとき、その源流の一つは、少年が真似していた、テレビの効果音だったのかもしれない。

 

彼は、SFを好んだと言われる。宇宙や星々、見たことのない世界。貧しい部屋のなかで、少年は、想像の宇宙を旅していた。ギターという楽器は、その旅を、音にする乗り物になる。ブルースの土の匂いと、SFの宇宙の香り。一見遠く離れた二つの世界が、一人の少年の頭のなかで、何の矛盾もなく、同居していた。それが、のちの「サイケデリック・ブルース」と呼ぶべき独自の音の、最初の種だった。

 

彼の耳は、ほかの少年たちとは、少し違う方向へ向いていたのだと思う。普通なら、歌のメロディーに耳を奪われるところで、彼は、音の「質感」に耳を澄ませた。ギターの弦が震える、その震え方。アンプが少しだけ歪む、その歪み方。音楽の「内容」ではなく、音そのものの「肌触り」に惹かれる耳。のちに彼が、フィードバックやディストーションを、楽器の一部として使いこなすことになる、その感覚の芽が、すでに、ここに見えている。

 

ヴェルヴェトーンズに続いて、ジミーは、「ロッキング・キングス」のようなバンドで、シアトルのクラブやダンスホールのステージに立った。最初のステージにまつわる有名な逸話がある。シアトルのシナゴーグ、テンプル・デ・ヒルシュで、名前のないバンドの一員として出演したとき、彼は、休憩の間に、クビを告げられたというのだ。理由は、目立ちすぎるから。バンドの調和を乱すほど、彼のギターは、すでに一人だけ、はみ出していたのだ。

 

10代のジミーが演奏した場所の一つに、シアトル郊外のダンスホール「スパニッシュ・キャッスル」がある。のちに「Spanish Castle Magic」という曲のモチーフになったと言われる場所だ。ティーンエイジャーたちが集まり、踊り、騒ぎ、バンドが次々と演奏する、小さな夢の城。少年にとって、そこは、ステージの熱を初めて肌で知る、学校のような場所だったのだろう。のちに世界のステージで燃え上がる音の火種は、こうした小さなダンスホールの片隅で、すでに、ちらちらと燃えていた。

 

別の逸話もある。ロッキング・キングスで演奏していたあるとき、ステージのあとに置いていったギターが、夜のうちに盗まれてしまった。ジミーは、途方に暮れる。そこで、父アルは、赤いシルバートーンのダンエレクトロを買い与えた。盗まれて、また与えられる。そのたびに、少年の音楽への道は、細く、しかし確かに、続いていった。貧しい家の父親が、息子の夢のために、二度もギターを買う。それは、決して小さなことではなかったと思う。

 

ジミーは、地元のガーフィールド高校に通っていたが、卒業はしなかった。学校の記録上は、中退とされる。のちに本人が「追い出された」と語ったという説もある。学校では、先生に評価されなかったかもしれない。けれど、教室の外では、彼は、誰よりも熱心な「ギターの学生」だった。庭師の父の仕事を手伝いながら、空いた時間はすべてギターに注ぎ込む。耳だけで学ぶ日々が、彼のなかに、膨大な音のライブラリーを積み上げていった。

 

私は、ヘンドリックスの「耳」の話をするたびに、少し切ない気持ちになる。もし、彼に、きちんとした先生がいたら。もし、楽器店で、立派な教則本を買えたら。彼は、「正しい」ギタリストになっていたかもしれない。けれど、そうならなかったからこそ、世界は、あの音を手に入れた。貧しさや欠如が、ときに、新しい音楽の入り口になる。それは、皮肉であり、同時に、音楽という営みの不思議な優しさでもある。

 

 


🎖️ 第101空挺師団——1961年の逮捕と、Billy Coxとの出会い

 

1961年5月2日。19歳に近づいたジミーは、自動車窃盗の罪で逮捕された。若い日の過ちは、彼の人生を、思いがけない方向へ転がす。刑務所に入るか、それとも軍隊に入るか。選択を迫られた彼は、刑務所を避けるために、陸軍への志願を選んだ。5月の末、彼は、陸軍に入隊する。配属されたのは、アメリカ陸軍の精鋭部隊、第101空挺師団だった。

 

訓練は、ケンタッキー州フォート・キャンベルを中心に行われたと言われる。パラシュートで空から降りる訓練、重い装備を背負う行軍、厳しい命令と規律。ギターの繊細な指先を持つ少年にとって、それは、まるで別の惑星のような生活だったに違いない。それでも、空を飛ぶという体験は、のちに彼が、音で「空を飛ぶ」ことを夢見る、その入口になったのかもしれない、と私は想像している。

 

のちに彼自身が語ったと伝えられるのは、「刑務所に入れば、ギターが弾けなくなる」という思いだった。ギターを守るために、彼は、軍隊を選んだ。けれど、軍隊が与えてくれたものは、ギターの自由ではなかった。厳しい規律のなかで、ギターに触れられない日々が続く。若い彼が、軍隊での生活に、深い違和感を覚えたことは、想像に難くない。

 

そんな軍隊のなかで、運命的な出会いが待っていた。同じ部隊で兵役についていた、ビリー・コックスである。ベーシストだった彼と、ジミーは、すぐに意気投合する。基地内のクラブハウスで、二人は、一緒に演奏することもあった。この出会いは、のちに、大きな意味を持つ。ビリー・コックスは、のちに、ヘンドリックスの「バンド・オブ・ジプシーズ」のベーシストとして、再び彼の隣に立つことになるのだ。

 

ビリーとの友情は、のちの二人の人生を、静かにつなぐ。軍隊という、望まない場所で出会った二人の若者が、基地のクラブハウスで、同じ曲を、同じテンポで弾く。そのとき生まれた「バンドの呼吸」は、除隊後も、二人のなかに残り続けた。

 

当時は、ベトナム戦争が始まったばかりの時期だった。ヘンドリックスは、ベトナムの戦場には行っていない。けれど、この従軍の経験は、彼の音楽の、深い部分に影を落としたと言われる。ウッドストックでの「星条旗」の演奏や、バンド・オブ・ジプシーズの「Machine Gun」の創作には、軍隊で見聞きした経験が、反映されているという見方がある。国歌を歪ませ、機関銃の音をギターで再現する。それは、軍隊を知る者にしかできない、静かで痛烈な批評だったのかもしれない。

 

やがて、ジミーは、陸軍を除隊する。その理由については、いくつかの説がある。1970年代初めにイギリスの音楽記者が著した伝記などでは、「パラシュートの降下訓練で負傷したため」と説明されている。一方で、2005年にアメリカで公表された軍内部の記録によれば、彼は、薬物やギターにしか興味を示さず、隊の規律を乱す劣等兵として、問題視されていたという。早期に軍役を終えて音楽に専念するために、わざと問題を起こしていたという説もある。どれが本当なのか、確かなことは分からない。

 

除隊の理由が曖昧なまま語り継がれてきたこと自体が、この時期のヘンドリックスの、つかみどころのなさを物語っている。規律に従う優等生でもなく、反抗だけを掲げる不良でもなく、ただ、ギターのことだけを考え続けている若者。軍の記録が冷ややかに描く「問題兵」の姿と、のちの伝説の姿との間には、深い溝がある。けれど、その溝のなかにこそ、天才が生まれる隙間があったのだと、私は思う。

 

ただ、一つだけ、はっきりしていることがある。軍隊は、彼にとって、「ギターを取り上げられた時間」だったということだ。その時間は、彼のなかで、ギターへの渇望を、いっそう強くした。除隊したジミーは、もう、以前の少年ではなかった。音楽で生きるしかない。その決意は、軍隊という寄り道を経て、むしろ、動かしがたいものになっていた。

 

 


🚌 チトリン・サーキット——Little Richard、Isley Brothers、Ike & Tina Turnerのバックで

 

除隊後、ヘンドリックスは、本格的な音楽活動を始める。ただし、この時期の彼は、まだ、無名のバックミュージシャンに過ぎなかった。ナッシュビルでは、ビリー・コックスとともに「キング・カジュアルズ」というバンドで演奏し、やがて、アメリカ南部と東部の黒人向けクラブやダンスホールをつなぐ、巡業の旅に出る。チトリン・サーキットと呼ばれる、地道で過酷な、ライブの道である。

 

この旅のなかで、彼は、数々の有名ミュージシャンのバックを務めた。アイズレー・ブラザーズ、リトル・リチャード、アイク&ティナ・ターナー。彼は、キング・カーティスのバンドにも、一時期、参加したと伝えられる。ステージの隅で、主役の邪魔をしないように弾く、それがバックミュージシャンの仕事だった。けれど、ヘンドリックスの指は、主役の脇で、どうしても、はみ出してしまう。

 

アイズレー・ブラザーズの1964年のシングル「Testify」には、彼のギターが記録されていると言われる。のちに世界的なスターになるギタリストの音が、まだ無名のまま、ソウルのレコードの片隅で鳴っていた。そのことを思うと、音楽の歴史は、後からたどると見えない、無数の小さな痕跡の上に築かれていることを、あらためて感じる。

 

リトル・リチャードのバンドを、彼が離れることになった理由には、諸説ある。派手な服装や、ステージでの存在感が、主役のリチャードの不興を買ったとも言われる。それは、彼の最初のステージでクビを告げられた逸話と、不思議に重なる。彼は、生まれつき、「脇役」でいることができない人間だったのだと思う。どれだけ控えめに弾こうとしても、彼のギターは、人の目を、耳を、奪ってしまうのだ。

 

この時期の生活は、決して楽ではなかった。巡業の旅は、長距離バスや、安宿を転々とする日々。給料は少なく、ギターを質に入れることもあったと伝えられる。南部の町々では、人種差別の現実が、露骨に彼を取り巻いていた。才能のある若者が、ステージの隅で、名前も呼ばれずに、他人のために弾く。その悔しさと、それでも、弾くことをやめない粘り強さが、彼のなかで、静かに、固く結晶していった。

 

夜行のバスの窓に映る、自分の顔。次の町のクラブで、また同じ曲を、同じ角度で弾く。観客は、主役の名前を呼ぶ。バックのギタリストの名前は、誰も覚えない。そんな毎日を、彼は、何年も続けた。名前のない時間が、長ければ長いほど、名前を得た後の音は、重くなる。ヘンドリックスの音に、どこか、深い孤独の響きが混ざっているのは、この「名前のない時間」の記憶が、指先に残っているからだと思う。

 

1960年代前半のアメリカの音楽環境では、才能があっても、黒人のギタリストが、主役として注目を浴びることは、極めて難しかった。ロックは、白人のものとされ、黒人のギタリストは、R&Bやソウルのバックで、「伴奏者」として扱われた。ヘンドリックスの頭の中にあった音楽は、そのどちらにも収まらない。ブルースでも、ロックンロールでも、R&Bでもない、まだ名前のない音。その音を鳴らす場所が、この国には、まだなかった。

 

ここで、私は、ヘンドリックスという人の、したたかさに、あらためて感心する。何年も、他人のバックで弾き続けた時間は、無駄ではなかった。彼は、あらゆるジャンルの現場で、観客を踊らせる方法、バンドの呼吸を読む方法、短い時間で聴き手の心を掴む方法を、体で学んでいた。主役になる前の「修行」の長さが、のちの彼の、圧倒的なステージ力の土台になったのだ。遠回りは、決して遠回りではなかった。

 

 


🗽 グリニッチ・ヴィレッジの1966年——Jimmy James & the Blue Flames

 

1966年、ヘンドリックスは、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジにいた。フォークとロックと詩とジャズが、小さなクラブやカフェで混ざり合う、実験の街。ここで、彼は、ついに、自分の名前を前面に出すバンドを組む。名前は、「ジミー・ジェームズ&ザ・ブルー・フレイムス」。「ジミー・ジェームズ」という名前は、彼自身が選んだ、新しい名だった。

 

バンドのメンバーには、まだ15歳のギタリスト、ランディ・ウルフがいた。ヘンドリックスは、彼を「ランディ・カリフォルニア」と呼んだ。のちに、バンド「スピリット」で活躍することになる人物である。年の離れた若者と一緒に、ヘンドリックスは、小さなステージで、一曲ずつ、自分たちの音を探していった。

 

グリニッチ・ヴィレッジは、当時、フォークとロックと詩と前衛芸術が、狭い路地のあちこちで混ざり合う実験の街だった。小さな地下のカフェでは、毎晩のように、無名の音楽家たちが、新しい音を試していた。カフェ・ワ?も、そんな店の一つだ。観客は少なく、ステージは小さく、けれど、そこには、誰にも縛られない自由があった。主役にもなれない「バックのギタリスト」が、初めて、自分の判断で、自分の音を鳴らせる場所だったのだ。

 

彼らが演奏していたのは、ブルースやR&B、そして、ボブ・ディランの曲だった。ヘンドリックスは、ディランの詩と歌に、深く惹かれていた。喉の枯れた、決して「うまい」とは言えないディランの声が、それでも人々の胸を打つのを見て、彼は、自分の歌声に対する不安を、少しずつ手放していったと言われる。「Like a Rolling Stone」のような曲は、のちに彼自身の重要なレパートリーにもなっていく。ギターの天才は、歌い手としての勇気も、ディランから受け取ったのだ。

 

ここには、もう一つ、見逃せない事実がある。ヘンドリックスは、自分の歌声に、強い自信を持てなかったと言われる。ギターでは誰にも負けないと分かっていても、マイクの前に立つことには、いつも、少しの恐れがあった。けれど、その不器用な歌声の、かすれた優しさが、のちに、世界中の聴き手の心を掴む。完璧ではない声が、かえって、人を惹きつける。ディランが教えてくれたそのことを、ヘンドリックスは、自分の音楽の中で、静かに実らせていく。

 

そして、運命の夜が訪れる。当時、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズの恋人だったリンダ・キースが、ヘンドリックスの演奏を聴いて、衝撃を受けた。彼女は、この無名のギタリストを、音楽業界の人々に紹介しようと奔走する。キースのストラトキャスターを、ヘンドリックスに貸したという話も伝えられる。若い女性が、直感だけを頼りに、見知らぬ天才に、手を差し伸べたのだ。

 

リンダ・キースの熱意は、やがて、ある人物の耳に届く。ザ・アニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーである。彼は、バンドの活動に区切りをつけ、新しい才能を発掘して、マネージメントしようと考えていた。リンダに勧められたチャンドラーは、グリニッチ・ヴィレッジのカフェ・ワ?に足を運ぶ。そこで、彼が目にしたのは、ステージの上で、全身を使い、炎のように音を鳴らす、一人の若い黒人ギタリストだった。

 

 


✈️ Chas Chandlerとの出会い——ロンドンへの片道切符

 

チャス・チャンドラーが、その夜、ヘンドリックスの演奏を聴いて、最も強く心を動かされたのは、「Hey Joe」だったと言われる。チャンドラーは、アニマルズの活動を終えたあと、新しい才能を発掘し、「Hey Joe」のような曲を録音させようと、探していた。その探し物が、小さなカフェのステージで、現実の姿を取って、目の前に現れたのだ。

 

チャンドラーは、ヘンドリックスに、ある提案をした。イギリスに来ないか、と。当時、イギリスは、新しい音楽に寛容だった。ビートルズ、ストーンズ、ザ・フーが世界を席巻し、若者たちは、ブルースを、自分たちの音楽として受け入れていた。アメリカでは「バックのギタリスト」でしかなかった彼を、イギリスなら、主役として迎えてくれるかもしれない。チャンドラーは、イギリスのギタリストたち——エリック・クラプトンのような——に、ヘンドリックスを紹介することも、約束したと伝えられる。

 

ヘンドリックスは、迷ったと思う。彼には、ニューヨークでの生活があり、ブルー・フレイムスの仲間たちがいた。けれど、アメリカには、彼の音を受け入れる場所が、まだなかった。ここに残れば、彼は、また、誰かのバックで、名もないまま弾き続けるかもしれない。海を渡ることは、賭けだった。けれど、すでに、彼には、賭けるものが、ほとんど何も残っていなかったのだ。

 

人は、失うものが少なくなったとき、最も大胆になれる。ヘンドリックスの旅立ちは、勇気というより、むしろ、そうした身軽さに近かったのかもしれない。持っていたのは、一本のギターと、まだ誰にも聴かせていない音だけ。それだけを持って、彼は、海を渡ろうとしていた。

 

1966年9月23日、ヘンドリックスは、ニューヨークから、ロンドン行きの飛行機に乗った。パスポートの手配など、旅の準備は、チャンドラーが引き受けたと言われる。彼は、名前の綴りも、「Jimmy」から「Jimi」に改めた。生まれた名前、育った名前、バンドの名前。いくつもの名前を持った少年は、ここで、もう一度、自分の名前を選び直したのだ。飛行機の窓から、ニューヨークの灯りが遠ざかっていく。そのとき、彼は、何を思っていたのだろう。

 

ここで、一つ強調しておきたい。ヘンドリックスは、アメリカに受け入れられなかったから、イギリスへ行ったのではない。アメリカが彼を受け入れる準備ができていなかったから、先にイギリスが彼を見つけた、と言うほうが正確だと思う。実際に、ロンドンへ発ってからおよそ9か月後の1967年6月、彼は、モンタレー・ポップ・フェスティバルで、アメリカの観客の前に、衝撃的な凱旋を果たす。その物語は、第2章で語りたい。

 

シアトルの貧しい家、母の早すぎる死、5ドルのギター、左手で弾く逆さのギター、軍隊、無数の安宿、他人のバックで弾き続けた日々。すべてが、この一つの飛行機の座席に、静かに載っていた。ほんの数か月後、イギリスのチャートに、彼の「Hey Joe」が顔を出す。そして、世界は、彼の音に気づく。もしあなたが、人生の大きな賭けに出るとき、あなたの手に残っているのは、どんな「道具」でしょうか。ヘンドリックスの手にあったのは、一本のギターと、折れない気持ちだけだった。

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1942年にシアトルで生まれた少年は、母を失い、父と暮らし、一本弦のウクレレから、5ドルのギターへ、そして、逆さに構えた右利き用の電気ギターへと、道を辿った。軍隊を経て、南部の巡業の旅を経て、他人のバックで弾き続け、ニューヨークの小さなカフェで、ようやく、一人の目に留まる。

 

1966年9月23日、ジミ・ヘンドリックスは、ロンドンへ旅立った。炎のような絶頂は、ここから始まる。——第2章へ。🎸

 

 

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